正月の集まりに現れたお洒落な紳士、岸田森
私は東京生まれだが父は九州出身。父方の実姉… 私から見たら伯母は東京に嫁いで都内在住。この伯母には2人の娘がいて、ともに芸能関係の仕事をしていた。
私が小さかった頃から、大体12月30日から1月3日までの間、この伯母の家に親族やご近所さんが集まり、正月を祝うのが恒例行事だった。そこでは普段お目にかかれないようなご馳走が並び、女達は次から次へと料理を運ぶ。私も5歳になったあたりから “がめ煮(筑前煮)” 作りを手伝った。
私が小学生だった時代のことだ。その恒例の正月の集まりに行くと、お洒落で細い、どこか見覚えがある男性が長い脚を組んで煙草を吸っていた。その男性に私から挨拶をした。すると、従姉妹が来て私との関係を説明してくれた。
ありがとう。べっぴんさん
「僕にスコッチをお代わり」
従姉妹が台所で用意したグラスを「シンさんに持って行って」と私に渡す。言われるがままにグラスを渡しに行くとその男性は、くわえ煙草で微笑む。
「ありがとう。べっぴんさん」
私は今までこの人以外から “べっぴん(別嬪)” さんと言われたことも呼ばれたこともない。当時の私には、その意味が分からず “べっぴん” とは九州の方言かと思ったくらいだ。だから、こっそり台所で母にべっぴんの意味を尋ねた。
「大人の女性の美人のことよ」
「つまり女優の従姉妹みたいな人?」
「そうね。誰がべっぴんなんて言葉、言ってたの?」
「ソファーに座ってる細い人」
「ああ。岸田森さんて俳優さん。従姉妹のお仕事仲間よ」
本を読めとか、映画を観ろとか…
入れ替わり立ち替わり親族が出入りし、出前持ちにも酒を振る舞うため、子供は必然的に座る場所がなく、立つ羽目になる。するとシンさんが手招きし自分の座ってる1人掛けのソファーに一緒に座るように言ってくれた。
私は招かれるままに、シンさんの大きく開いた脚の間にちょこんと座る。
シンさんは、私の顔のすぐ前で長い指でひっきりなしに煙草を吸い、私の背中ごしにスコッチのグラスを持ち、水のように呑んではたくさんの話をしてくれた。
「本を読め」とか、「映画を観ろ」とか。
その間にシンさんのスコッチのお代わりが続く。配膳の手伝いに呼ばれて中座しても、いつしか私はシンさんのソファーにくっついて座り、そこが定位置になっていた。
正月の集まりにきた子供たちは、夜の10時には強制的に歯磨きの後、2階の寝室で寝かされたが、私はトイレに行くついでに1階の客間で夜を通して演劇論や音楽の話しに興じる、いわゆる “大人” が羨ましくて、こっそり聞き耳を立てる。
早く大人になりたい―― 今思えば、それはシンさんと、もっともっとお酒を呑みながら話をしたかったんだと思う。
食い入るように観たドラマ「傷だらけの天使」
数年後、シンさんと恒例の正月の集まりで会った。この時も「べっぴんちゃん。背が伸びたな。女優にならないか?」から始まりお年玉をもらった。シンさんは、やはり煙草とお酒はひっきりなし。
その年は従姉妹がドラマのレギュラーの仕事をしていたため、九州からも親戚が上京し、恒例の集まりも、いつもの倍の人数だった。そのため、シンさんとはあまり話せなかった。
親戚や芸能関係の人たちに囲まれて、シンさんも今年はドラマで忙しくなるかも… と小耳に挟んだ。
それが『傷だらけの天使』(1974年)で、当時はビデオなどないため毎週食い入るように観ていた。
通っていた小学校でも常に話題に上がったドラマで、男の子は大抵トマトに塩をかけてかぶりつく… などの真似をしていたほどだ。
天才より奇才、正統より異端であれ
そんなある日、当時の仲良しだった友達に「私、辰巳吾郎(岸田森の役名)に会ったことあるよ」と言ったら「お化けみたいで気持ち悪い」と言われ傷ついたことがあった。
この話を母にしたら、後日、従姉妹経由でシンさんの耳に入ったらしい。
その翌年の恒例の正月の集まりで、従姉妹がシンさんのメッセージを聞かせてくれたのだ。
「シンさんに、あなたが大好きなシンさんを友人に貶されて傷ついた話をしたら、シンさん大笑いして “お化けや気持ち悪いは褒め言葉だ。傷つくことないよ。天才より奇才と呼ばれたいし、正統より異端であれ” って言っていたわ」
小学生だった私には、このとき難しくて理解出来なかったが、何だか気持ちが楽になり、ますます早く大人になってシンさんとお酒を呑みながらたくさんの話がしたいと強く思ったのだった。
『傷だらけの天使』以降多忙になったのか、この正月の集まりにシンさんが現れることは2度となかった。
それでも母と出来る限りシンさんの作品を観るようにしていたが、私が成人する前にシンさんの訃報が従姉妹から届いた。茫然自失の私に母がぼつりと呟いた。
「男の大厄だったのね」
岸田森さん。異端と、奇才と、まだ若い私に初めて喪失感を教えてくれた人になった。
2020.10.15