10月9日

倉本聰「北の国から」虚飾を脱ぎ捨て拓いた本当にやりたい道

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photo:BSFUJI Corporation  

ニッポン放送入社4年目の決意、脚本家・倉本聰の誕生のエピソード


脚本家の倉本聰サンが、まだニッポン放送の社員だった頃の話である。

ある日の夕刻、倉本サンのもとに運行デスクから「明日の放送テープが届いてない」と連絡が入る。それは、渥美清サンと水谷八重子サンによる対話形式のラジオドラマで、倉本サンはそのディレクターだった。放送は、明日の早朝6時台である。大慌てでロッカーや机の周囲を探すも、編集済みのテープは見つからない。仕方ない、急いで録り直しをしようと2人の事務所に連絡すると、渥美サンは夜中の3時なら来れるという返事。しかし、水谷サンは海外旅行中だった。万事休す―― 倉本サンは顔面蒼白になった。放送局が最もやってはいけないこと。それは放送に穴を開けることである。

その時、倉本サンに天啓がひらめく。急いで編集室に入ると、これまで放送済みのテープを引っ張り出して、水谷サンの「へー」とか「ほんと?」「バカねぇ」「それでどうしたの?」といった “相槌” を片っ端から拾ってダビングした。続いて、これらに対応する渥美サンの台詞を猛烈な速さで台本に書いていく。間もなく、渥美サンがスタジオに到着した。コトのてん末を話すと、渥美サンは大笑い。それから水谷サンの相槌をテープで流し、それと掛け合うように渥美サンの新たな台詞を録音して、午前5時前に録音終了。そこから大急ぎで音楽を入れるなど編集作業を施し、完パケのテープに仕上げて、運行デスクに放り込んだのが、放送のわずか30分前だった――。

かくして、倉本サンは命拾いをしたという。倉本ファンなら知らぬ者はいない、有名なエピソードである。原因は、無理な二足の草鞋の生活にあった。当時、倉本サンはニッポン放送でディレクターの仕事をする傍ら、会社には内緒で、他局のテレビドラマの脚本のアルバイトも掛け持ちしており、そっちは帰宅後の夜中に書くので、睡眠時間が毎日2時間という生活が続いていた。要は、多忙による注意力の散漫が招いたピンチだった。

「この辺りで潮時だろう」

倉本サンはこれ以上、会社に迷惑はかけられないと、退社を決意する。入社4年目、28歳の春だった。時に1963年―― 脚本家・倉本聰の誕生である。

大学2年でラジオドラマの脚本家デビュー


少々前置きが長くなったが、今日、1月1日は、そんな倉本サンの戸籍上の誕生日。なんと、1935年生まれの御年86歳(!)である(お若いっすよね)。今回のリマインダーは、ある意味、年の初めを飾るに相応しい倉本サンの半生を紐解きつつ、80年代の王道ドラマ『北の国から』(フジテレビ系)に落とし込みたいと思う。

倉本聰―― 本名・山谷馨 (やまやかおる)。東京は代々木の生まれである。父は医学系の出版社を営み、祖父は衆議院議員を務めた名家だった。中学・高校を麻布に学び、同級生に元・西武鉄道グループオーナーの堤義明がいた。この縁が後に富良野プリンスホテルとの関係に繋がる。

2浪して東京大学文学部に入るも、学業そっちのけで演劇にのめり込み、劇団「仲間」の文芸部に籍を置く。早くも大学2年の時にラジオドラマで脚本家デビュー。4年の冬には、ラジオで連続ドラマを書き、初めて「倉本聰」というペンネームを用いる。父親の実家の屋号の「倉本」と、妹の名前の「聰子」から取ったもので、特に深い理由はなかった。

ニッポン放送に採用された倉本聰、もしもフジテレビに入社していたら…


1959年、倉本聰サンは東大を卒業し、ニッポン放送に入社する。この年と言えば―― そう、フジテレビが開局した年。倉本サンは「これからはテレビの時代」と確信し、船出したばかりのフジを希望するも、どういうワケかフジは親会社のニッポン放送と文化放送も加えた3社合同のマンモス入社試験を実施する。で、これに勇み臨んだ倉本サンは、なぜかニッポン放送に採用されたのである(笑)。

かくして、4年間のラジオディレクター生活が始まる。倉本サンはテレビドラマへの未練を断ち切れず、会社に内緒で脚本のアルバイトを始める。そして、冒頭で紹介した“テープ紛失事件”に繋がる。If… もしも―― 倉本サンがフジテレビに入社していたら、ドラマディレクターとしての道を歩み、二足の草鞋を履くことなく、その後の脚本家・倉本聰は誕生していなかったかもしれない。

運命とは、不思議な巡り合わせである。

新人脚本家が仕事をもらうコツ “来た仕事を断らない”


さて、フリーの脚本家として船出した倉本サン。新人脚本家が仕事をもらうコツはただ一つしかなく、愚直にそれを実践する。即ち、来た仕事を断らない――。幸いなことに、倉本サンは速筆家だった。この業界、故・井上ひさしサンや三谷幸喜サンら遅筆家が話題になることは多いが、珍しく(?)倉本サンは仕事が早く、しかもホンが面白かった。売れっ子脚本家になるのは時間の問題だった。

1971年、早くも “その時” が訪れる。この年、倉本サンは日本テレビ系の『2丁目3番地』のメインライターを務め、当代人気の石坂浩二と浅丘ルリ子の初共演で、夫婦を演じたこともあり大ヒット。しかも、ドラマ放映中に本当に婚約し、放映直後に結婚するボーナストラック付き――。世は、TBSの『ありがとう』に端を発するホームドラマ全盛期で、同ドラマもそのカテゴリーにあった。

ただ、随所に倉本サンらしさが光るドラマでもあった。石坂サン演じる夫の職業は売れないテレビディレクターで、浅丘サン演じる妻が美容院経営者。要は、二枚目半の生活力のない夫と、やり手の妻との対比で見せる、昭和版 “髪結いの亭主” だった。この辺りの設定の妙は実に倉本サンらしい。また、同ドラマは向田邦子サンも書き手に入っており、毒や下ネタも厭わない大人の演出も光った。

大河ドラマ「勝海舟」満を持しての大仕事だったが…


倉本聰サンは一躍、売れっ子脚本家になった。1972年にはNHKで小林桂樹・あおい輝彦のキャスティングで『赤ひげ』を、1973年にはTBSで田宮二郎主演の『白い影』、同73年にフジテレビで高橋英樹の出世作となった『ぶらり信兵衛 道場破り』を執筆し、いずれも人気を博した。そして―― 満を持して、あの “大仕事” の依頼が来る。NHKの大河ドラマ『勝海舟』である。

時に、1974年――。だが、同ドラマが倉本サンのその後の人生を大きく変えようとは、当の本人ですら知る由もなかった。

この辺りから、僕のリアルタイムの記憶がリンクする。『勝海舟』は大河ドラマ12作目の作品で、前作の『国盗り物語』が人気を博した(幼稚園児の僕でも毎週欠かさず見ていたくらい)影響で、始まる前から期待値は高かった。しかし―― これがよもやの “呪われた作品” となる。

倉本聰、北海道・札幌へ… 主役の途中降板、NHKの演出陣と対立


まず、主役を務める海舟役の渡哲也サンが病気のために途中降板。大河ドラマ始まって以来の前代未聞の事態だった。急遽、代役が検討され、東映所属の松方弘樹サンが抜擢される。さらに、脚本を担当する倉本聰サンがNHKの演出陣と対立―― 原因は、“本読み”だった。

本読みとは、ドラマのリハーサルにおいて、最初に行う“台詞合わせ”である。通常、会議室などのテーブルに着き、出演者たちは脚本を手に持って、各々の台詞を発していく。この時、ディレクターから台詞のニュアンスや演出意図が告げられることもあるが、多分に儀礼的なものである。

だが、倉本サンはいつもこの本読みを自分が仕切っていた。「この台詞はどんな気持ちで発したらいいか」を説明できるのは、脚本家の自分しかいないと。当然、NHKでもこのスタイルを貫く。そこで、プライドの高いNHKのディレクター陣と衝突したのである。

まぁ、ドラマの作り方は作品によってバラつきがあり、何が正解というものはない。とはいえ、結果的にこの件が引き金になり、倉本サンとNHKのディレクター陣は対立し、週刊誌がこれを焚きつけ、さらに大騒動に発展する。これに嫌気がさした倉本サンは羽田空港へ向かい、北海道・札幌へ飛び立つ。1974年6月―― 雨の降る午後だった。

テレビ業界の悪弊を描いた連続ドラマ「6羽のかもめ」


この時、倉本サンは本気で筆を折るつもりだったという。ひとまず、札幌市内の旅館に身を落ち着け、一区切りとなる大政奉還の回まで脚本を書き上げ、郵便で送った。それからは毎晩、ススキノに繰り出して飲み歩いた。行きつけの店で地元の常連たちの友人もできた。ぼんやりと次の仕事をタクシーの運転手でもやろうと考えていると話すと、彼らは「トラックの運ちゃんのほうが似合う」と口を揃えて言う。確かに、短髪風情に、気風のいい倉本サンの喋りは、タクシーよりもトラック向きだった。

倉本サンは二種免許を取る準備を始めた。そんなある日、どこで調べたか、フジテレビの中村敏夫サンが旅館を訪ねてきた。後に、『北の国から』を倉本サンと立ち上げる御仁である。この時は、秋から始まる連続ドラマの脚本の依頼だった。

「いい役者さんを押さえているんですよ。淡島千景、加東大介、高橋英樹……」
「何を書いてもいいんですか?」
「もちろん」
「テレビの悪口でも?」
「いいです、いいです。何でも書いてください」

この時、倉本サンの心のうちに、NHKとの騒動がよぎったのは言うまでもない。「この機会に、テレビの嫌なところや業界の悪弊を僕なりに思い切って書いてみよう――」

かくして、フジテレビの連続ドラマの企画が急転直下で決まった。『6羽のかもめ』である。そして、この作品から、皮肉にも倉本聰サンの黄金時代が幕開ける。これだから人生は面白い。

高かった業界内視聴率、「6羽のかもめ」でエランドール賞を受賞


ここから先の話は長くない。
『6羽のかもめ』は視聴率こそ一桁台と低迷するも、芸能界とテレビ業界の内幕を描いた内容は物議を醸し、業界内視聴率は高かった。あの美空ひばりも毎週欠かさず観ていたという。最終回の「さらばテレビジョン」では、山崎努扮する放送作家(当時は脚本家をこう呼んでました)がカメラ目線でテレビの作り手たちに辛らつな言葉を投げかけるが、それは倉本サンの心の声でもあった。

「テレビを本気で愛さなかったあんた!――」

同ドラマは優れた映画やドラマの俳優や作り手に贈られるエランドール賞を受賞する。

倉本サンは覚醒した。1975年にはTBS『東芝日曜劇場』で、北海道を舞台に大滝秀治サン主演の『うちのホンカン』を書いて、一躍人気シリーズに育て上げる。また、日本テレビでもショーケン(萩原健一)に純朴な板前の青年を演じさせた『前略おふくろ様』が大ヒット。毎回、主人公のサブが母親宛に手紙を綴るモノローグは流行語となり、この手法は後に『北の国から』にも生かされる。

1976年には、旧知の石原プロとの縁から、日テレで『大都会 闘いの日々』を書いて、これも後にシリーズ化される大ヒット。1978年には再び石原プロと組んで、今度はテレビ朝日を舞台に渡哲也主演の『浮浪雲』を執筆。普段あまり見られない渡サンのコメディ芝居を引き出した。

自身が暮らす富良野が舞台、大自然と共生する親子のドラマ「北の国から」


そして時代は80年代を迎える。フジテレビは「暗黒の10年」と呼ばれた低迷期から脱すべく、“ジュニア” こと鹿内春雄副社長が事実上のトップに就いて采配を振るい、劇的に変化し始める。ドラマ『北の国から』の企画も、そんな中から生まれた。もちろん、発案者は倉本サン。自身が暮らす富良野を舞台に、大自然と共生する親子の話を書いてみたい――。

ドラマ『北の国から』は、放送開始の実に1年前―― 1980年の秋にクランクインする。それは、劇中で描かれる富良野の自然は嘘偽りのないものにしたいという倉本サンの思いであった。そのため、四季の風景をカメラに収めるべく、途方もない時間がかけられたのである。

1981年10月9日、『北の国から』第1話、オンエア。主題歌は、倉本サン自ら声をかけ、さだまさしサンを自宅に招いた際に、ほとんど即興で作ってもらったという。歌詞がないのは、虚飾を排したい倉本サンの意向だった。実際、この曲には余計な歌詞はいらない。富良野の大自然があればいい。

黒板五郎に自身を投影、倉本聰が拓いた “本当にやりたい道”


虚飾を排する―― その思いは、純(吉岡秀隆)と螢(中嶋朋子)を連れて、東京から北海道・富良野へ移り住んだ父・黒坂五郎(田中邦衛)も同じだった。廃屋を修繕した彼らの家には、電気もガスも水道もない。しかし、都会暮らしに慣れ親しんだ純は、そんな五郎に反発する。同ドラマ屈指の名シーンである。

純「電気がなかったら暮らせませんよ!」
五郎「そんなことはないですよ」
純「夜になったらどうするの!」
五郎「夜になったら寝るんです」

ちなみに、五郎のドラマ上の生年月日は1935年生まれ―― これは倉本サンと同じである。つまり、五郎は倉本サン自身であり、NHKを追われるように北海道へ移り住んだ倉本サンは、7年経って、ようやく自身を五郎に投影する余裕が生まれたのである。

人間、どん底まで落ち込み、全てを失ってからが、本当にやりたい道が拓ける―― 奇しくも、倉本聰サンがそれを証明してくれた。今、僕らはコロナ禍に揺れた2020年から、新しい年を迎えたばかり。ある意味、自身をリセットする、いい機会かもしれない。虚飾を脱ぎ捨てた先に、本当にやりたい道が拓けるかもしれない。

2021年、いい年にしましょう。


※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。


2020.12.31
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カタリベ
1967年生まれ
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