クリスマス、お正月、冬休み… 今より風情があった年末年始
だいたい80年代前半くらいまでだろうか、年の瀬の風景は今よりずっと風情があった。
正月は休みの店がほとんどだったから、年内に買い物を済ませてしまおうという消費欲が高まり、どこも活気があった。商店街では “歳末大売出し” が展開されるなど、街全体に年末っぽさが漂っていたのだ。クリスマスというビッグイベントが終わってもすぐにお正月がやってくる嬉しさ。学生時代は冬休みと重なってソワソワが止まらなかった。
そんな時期、毎年楽しみだったのが、テレビ情報誌の『年末年始特大号』である。今のように特番枠が頻繁でなく、2時間以上の枠は改編期や年末年始くらいしか見られなかったから、雑誌を買うとまず大晦日の番組表のページを開き、時間ぶち抜きのいつもと違う編成を眺め、目を輝かせるのが常だった。この分厚い号が書店に並ぶと、いよいよ今年も終わりだなと実感させられたもので、一番熱心だった時分には年末年始に観たい番組を予めマーカーでチェックしていた。
TVガイド「年末年始特大号」で振り返るニッポンの大晦日
我が家では自分が小学生になる頃から、『TVガイド』誌が茶の間のテーブルの上に常備されるようになった。役目を終えた雑誌は処分されていたのだが、どうしても捨てられずにとっておいたのが年末年始号。書庫を調べてみたら、家にあるいちばん古いものは1974年(昭和49年)の正月号だった。つまりは1973年12月最終週と1974年の1月第1週の番組表が掲載されている特大号で、以降2019年まで45年間の『TVガイド』の年末年始号はすべて揃えている。
その後発行された『週刊テレビ番組』や『ザ テレビジョン』『テレパル』『TV LIFE』なども不揃いながら保存しているので、その数はかなりに及ぶ。とにかくテレビを生活の中心に置いてきた生粋のテレビっ子としては、雑誌に載っている当時のテレビ番組表を見れば、各年の大晦日の記憶もだいたい甦ってくる。
友人と年越しの初詣に出かけていた学生時代の一時期を除けば、大晦日はなるべく家で過ごしたい性分だった。毎年元日には家族で墓参りをし、親戚宅へ挨拶に向かうという我が家の慣わしに備えてのこともあったが、やはり『輝く!日本レコード大賞』と『NHK 紅白歌合戦』という、ふたつのビッグイベントを生放送で観たかったからなのだ。
さらに民放の『ゆく年くる年』を観ながらカウントダウンして新年を迎えるわけだが、民放全局が同じ番組を一斉に放映する同番組の非日常感は半端なかった。さて、手元にある TVガイドを見ながら80年代の大晦日を想い出してみよう。
1979年、紅白の顔は山川静夫と水前寺清子
80年代の幕明けを迎えようとしていた1979年の大晦日については、紅白の司会者だった山川静夫と水前寺清子が微笑む表紙の通算897号より。
―― この年のレコード大賞はジュディ・オング「魅せられて」であったが、その裏のフジテレビではなんと『ゴジラ対ガイガン』を放映していた。何をやってもレコ大には勝てないから、映画でお茶を濁していたとおぼしく、日テレは『地底巨大生物の島』、テレ朝は『ゴルゴ13 九竜の首』といった按配。
特撮ファンに目覚めていた自分は、レコ大を横目に、自分の部屋の小さなテレビで『ゴジラ対ガイガン』を観た。紅白の裏では、かつてコント55号で野球拳をやっていた日テレが『欽ちゃんの紅白歌合戦をぶっとばせ! 第1回全日本仮装大賞』を放映している。
1982年、充実し始めた裏番組にビデオデッキを活用!
紅白司会が3年連続となった山川静夫と黒柳徹子が表紙の1982年末号。
―― この頃になると、レコ大と紅白は毎年しっかりビデオ録画して保存するようになっていたが、大晦日は買い物などで外出したとしてもレコ大の放送が始まる18時半までには必ず帰宅してテレビの前でスタンバイ。この年はなんとその裏で日本テレビが開局30周年の記念番組として『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』をぶつけてきたため、ウルトラクイズのファンとしては大いに苦悩した。結局録画しているレコ大は時々経過を見守ることにしてウルトラクイズを主に観た。ビデオデッキ(ソニー派の我が家はベータマックス)は1台しかなく、同時間帯の複数録画など、まだ夢の時代だった。
レコ大の帝国劇場から紅白のNHKホールへ、出演者は間に合うのか!
この年の大賞は細川たかし「北酒場」が受賞している。ちなみに松本伊代、シブがき隊など、豊作だった新人賞も見ものだった。いずれも生放送だったから、レコ大が20時55〜56分に終了してから21時に紅白が始まるごく僅かの時間に、帝国劇場から NHKホールへ出演者たちは移動しなければならない。この移動が果たして間に合うのか、紅白の入場が始まるまで心配させられた。
大賞受賞者である細川たかしは入場を最後にするなど配慮されていたようだが、たしかこの年か、「矢切の渡し」で連続して大賞を獲った翌83年のどちらかは到着が少し遅れたのではなかったか。そして、『日本レコード大賞』の司会を長年務めた高橋圭三が勇退したのも、1983年のことだった。
1986年、ビートたけしのフライデー襲撃事件で編成変更22番組!
1986年、帝国劇場から日本武道館へ会場を移して2年目の『レコ大』は、中森明菜が「DESIRE -情熱-」で2年連続受賞。一方の紅白の司会は前年の鈴木健二&森昌子から、加山雄三&斉藤由貴に交代している。有名な「仮面ライダー!」事件の年である。
この年の『TVガイド』には、折り込まれた別紙が挟んであった―― なんだろうと思って開いてみると、「テレビ番組変更のお知らせ」とあって、それはビートたけしのフライデー襲撃事件関連で急遽変更になった年末年始の番組一覧だった。その数、2週間で計22番組。当時のビートたけしがどれだけ人気者だったかが窺える。
1980年代、レコ大の裏で一貫したテレビ朝日「ドラえもん」
最後に10年分の『TVガイド』年末年始特大号を見返して気づいたこと――。
80年代の大晦日、レコ大と紅白の裏番組が映画、バラエティ、時代劇など常に変動していた中で、レコ大の裏でテレビ朝日だけは一貫して藤子不二雄スペシャルなのであった。ドラえもんの威力、おそるべし!
*2018年12月30日、2019年12月31日に掲載された記事をアップデート
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2023.12.30