10月

稀代のインテリ芸人・タモリと黄金の6年間、密室芸から紅白の総合司会までたった8年!

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photo:Tanabe Agency  

80年代はインテリの時代、たけし、さんま、そしてタモリ


思えば、80年代はインテリの時代だった。
コピーライターやCMプランナーが時代の仕掛け人として脚光を浴び、シンセサイザーを奏でるコンセプチャルなグループが世界を席巻し、アメリカ文学に影響されたポップな文体の作家がトレンドになった。彼らは紛うことなきインテリだった。間違っても、浪花節やスポ根ではなかった。

お笑いの世界でも、その傾向は顕著だった。
猛威を振るった漫才ブームが過ぎ去った後、残ったのは毒舌の中にキラリと教養が光るビートたけしサンだった。『オールナイトニッポン』では機関銃のような喋りで男子中高生から教祖と崇められ、『オレたちひょうきん族』では座長として内輪ネタを連発。裏の『8時だョ!全員集合』を終了に追い込んだ。

その『ひょうきん族』で、「アドリブではあいつに敵わない」とたけしサンに言わしめたのが、明石家さんまサンだった。デビュー当時、落語や形態模写では結果を残せなかったものの、『笑っていいとも』で始めた前代未聞のフリートークのコーナーで時代の寵児に。ドタバタではなく、喋り一本で笑わせる意味において、彼もまた紛うことなきインテリ芸人である。

そんな『いいとも』を30年以上も続く長寿番組に押し上げたのが、タモリさんだった。初期の『いいとも』がお笑い芸人を極力排除し、俳優や作家、音楽家や雑誌編集者をレギュラーに起用したのは、時代がインテリを求めたからである。そして、そんな番組のMCは、タモリさんを置いて他になかった。

1982年10月、同時期に始まった「笑っていいとも」と「タモリ倶楽部」


おっと、タモリさんと言えば、こちらも忘れちゃいけない、流浪の番組『タモリ倶楽部』がある。街を舞台に、一貫してマニアックな視点で対象物を探求する姿勢は、紛うことなきインテリ番組と言えよう。過度な笑いに走らず、終始マイペースに伝えるタモリさんだからこそ、80年代から今も続く長寿番組になり得たのだ。

そう、昼の『笑っていいとも』と夜の『タモリ倶楽部』―― タモリさんのライフワークとも呼べる2つの番組は、まるで表と裏、太陽と月のような関係にあるが、この2つがわずか5日違いで始まったことは、あまり知られていない。今から38年前―― 1982年10月の話である。

 Ooh man, dig that crazy chick.
 Who wear short shorts?
 We wear short shorts!
 They're such short shorts!
 We like short shorts!
 Who wear short shorts?
 We wear short shorts!

 よぉ、お前さん、見ろよ、あのクレイジーな娘
 男:ショートパンツはいてるの、誰よ?
 女:うちら、みんなショートパンツよ
 男:それ、すごい短いじゃん!
 女:だって好きなんだもん
 男:ショートパンツはいてるの、誰よ?
 女:だから、みんなだって

ご存知、『タモリ倶楽部』のオープニングで流れる曲である。なんと意味のない歌詞だろう(褒めてます!)。1958年にザ・ロイヤル・ティーンズが歌い、全米3位と大ヒットした「ショート・ショーツ」だ。ちなみに、作曲したメンバーのボブ・ゴーディオは、後にフォー・シーズンズに加入し、1967年には「君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You)」を作曲する。僕らには、1982年にボーイズ・タウン・ギャングがカヴァーしたバージョンが馴染み深いが―― 稀代のヒットメーカーだ。

そう、こんなセンスのいいオールディーズを持ってきて、ピタリとハマるのがインテリ番組の証左である。ちなみに、『タモリ倶楽部』はタモリさんが自分の趣味を、番組を利用してやっているようにも見えるが―― 実は全てスタッフ側が用意した企画。「何をすれば、タモリさんが喜んでくれるか?」を周囲が考え、それをタモリさんが自分のフィールドに寄せて、遊んでくれる。そんな信頼関係が、『タモリ倶楽部』なのだ。

森田一義からタモリへ、最初の転機は山下洋輔との出会い


本名・森田一義。生まれは1945年8月22日、出身は福岡県福岡市である。一応、戦後世代だが、終戦の一週間後というのが凄い。高校は筑紫丘。僕は地元なのでよく知ってるが、県下でも指折りの進学校だ。実際、タモリさんは一浪後、1965年に早稲田大学第二文学部に入学する。さすがインテリ芸人。だが―― ここからタレント・タモリが誕生するまで、あと11年も要することになろうとは、一体、誰が想像できただろうか。

大学でタモリさんは「モダンジャズ研究会」に入る。しかし、早々にトランペットは諦め、その喋りの上手さを買われて、ステージの司会を担当するようになったという。これが上々の評判となるが、そこからタレント業へ繋がるかと思いきや―― 学費を滞納してしまい、2年で大学を抹籍。

タモリさんは実家の福岡に戻り、保険会社へ就職する。ここで、3年間ほど外交員として働き、その間に同僚の女性と結婚。もはや普通のサラリーマンだ。ここからどうやって、タレント・タモリに繋がるというのだろう。

その後、タモリさんは旅行会社に転職して、系列のボウリング場の支配人になる。時に1971年―― 世はボウリングブーム真っ盛りである。この時点でタモリさんは20代半ば。タレント業に繋がる活動は何もしておらず、勤務地は大分県の日田市。まさか、この5年後、東京で『オールナイトニッポン』のパーソナリティをやっていようとは、人生、何が起きるか分からない。

タモリさんの転機は意外な形でやってきた。
再び転職して、今度は喫茶店のマスターとなった1972年。福岡へコンサートでやってきた山下洋輔サンらと、ホテルで偶然知り合う。そこで「4か国語麻雀」などの持ちネタを披露すると、これが大ウケ。たちまち「福岡にタモリあり」とミュージシャンたちの間で評判になり、彼らがコンサートで福岡へ来る度に遊ぶ仲になった。

赤塚不二夫との出会い、そして運命の番組「徹子の部屋」出演


そして運命の年、1975年を迎える。
この年の8月、山下洋輔サンらの誘いで、新宿ゴールデン街の「ジャックの豆の木」で独演会をするために、旅費を出してもらって上京したタモリさん。そこへ、噂を聞きつけ、やってきたのが赤塚不二夫サンだった。

初めて目にする “密室芸” の数々に、手を叩いて喜び、涙を流して笑う赤塚さん。2時間の独演会が終わるころには、すっかりタモリさんの才能に心酔しきっていたという。

「この男を福岡に帰したくない――」

そう考えた赤塚サンは思わぬ行動に出る。自宅のマンションにタモリさんを居候させ、自分は仕事場に寝泊まりするように――。実質、タモリさんに4LDKの自宅を貸したようなものだった。さらに毎月、お小遣いまであげ、飲み屋へ連れて行っては、芸能界の関係者らにネタを見てもらい、タモリさんの人脈を広げていった。その甲斐あって、1976年の初めには、田辺エージェンシーとの契約にこぎつける。タレント・タモリの誕生である。30歳の遅咲きのデビューだった。

ここから先の話は長くない。
1976年4月、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『空飛ぶモンティ・パイソン』でプロとしてテレビデビューを果たすと、そこから『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)にもレギュラー枠をもらい、さらに同年10月には『オールナイトニッポン』のパーソナリティに就任する。

そして翌1977年は、運命の番組にゲストとして初出演する。『徹子の部屋』(テレビ朝日)である。この時に披露したタモリさんの密室芸の数々が黒柳サンのツボにハマり、翌1978年からは年末最後のゲスト出演が恒例となる。

芸能界キャリア8年で「NHK紅白歌合戦」の総合司会に抜擢!


80年代に入ると、永六輔サンの誘いで、NHKの『ばらえてい テレビファソラシド』のレギュラーに抜擢される。当初、不安視されながらも、公共放送との相性の良さを証明し、この経験が後の大抜擢に繋がる。また、日本テレビでは、キャリア5年ながら、師匠の赤塚不二夫サンと共に『お笑いスター誕生!!』の審査員を務め、さらに1981年には、自身2つ目となる冠番組『今夜は最高!』をスタート。インテリ芸人ぶりにさらなる磨きをかける。

気がつけば、すっかり売れっ子タレントになっていたタモリさん。1982年10月には、冒頭でも紹介した、わずか5日違いで2つの長寿番組『笑っていいとも』と『タモリ倶楽部』がスタートする。

極めつけは、1983年の大晦日だろう。芸能界のキャリア8年ながら、『第34回NHK紅白歌合戦』の総合司会に抜擢されたのだ。同局のアナウンサー以外の人物が総合司会を務めるのは、史上初の快挙だった。

1976年のデビューから、たった8年で紅白の総合司会へ。稀代のインテリ芸人・タモリさんだから出来た快挙だろう。実質、1978年から80年代は始まっていたとする「黄金の6年間」に照らし合わせれば、インテリの時代が追い風になったことは容易に推察できる。

デビューが5年、どちらかにズレていたら、今のタモリさんはいなかったかもしれない。


※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。


2020.10.11
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カタリベ
1967年生まれ
指南役
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