思えば、「黄金の6年間」はインテリの時代だった。
コピーライターやCMプランナーが時代の仕掛け人として脚光を浴び、シンセサイザーを奏でるコンセプチャルなグループが世界を席巻、アメリカ文学に影響されたポップな文体の作家がトレンドになった。彼らは紛うことなきインテリだった。間違っても、浪花節やスポ根ではなかった。
お笑いの世界でも、その傾向は顕著だった。
猛威を振るった漫才ブームが過ぎ去った後、残ったのは毒舌の中にキラリと知性が光るビートたけしサンだった。『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)では機関銃のような喋りで男子中高生から教祖と崇められ、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)では座長としてアドリブの笑いを重視。とうとう裏番組の『8時だョ!全員集合』(TBS系)を終了に追い込んだ。
初期の「笑っていいとも」はインテリ路線だった
その『ひょうきん族』で、「アドリブであいつには敵わない」とたけしサンに言わしめたのが、明石家さんまサンだった。『笑っていいとも』(フジテレビ系)では、前代未聞のフリートークのコーナーをプロデューサーに直訴。それが「タモリ・さんまの日本一の最低男」となり、抜群の話芸で時代の寵児になったのは承知の通り。しゃべり一本で笑わせる意味において、彼もまたインテリである。
そんな『いいとも』を31年半もの長寿番組にしたのが、タモリさんだった。初期の『いいとも』がお笑い芸人を極力排除し、俳優や作家、音楽家や編集者をレギュラー出演者に起用したのは、時代がインテリを求めたからである。そして、彼らをリードできるMCは、芸能界広しといえどもタモリさんを置いて他になかった。
おっと、タモリさんと言えば、こちらも忘れちゃいけない―― 流浪の番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)である。スタジオを持たない、オールロケ番組。一貫してマニアックな視点で何かを探求する姿勢は、紛うことなきインテリ番組だろう。過度な笑いに走らず、終始マイペースに伝えるタモリさんだからこそ、80年代から今も続く長寿番組になれたのだ。
そう、昼の『笑っていいとも』と夜の『タモリ倶楽部』―― 長らく、タモリさんのライフワークだった2つの番組は、まるで表と裏、太陽と月のような関係にあったが、両者がわずか5日違いで始まったことは、あまり知られていない。『いいとも』の第一回放送が1982年10月4日の月曜日、同じ週の金曜夜に『タモリ倶楽部』が始まっている。
さて―― 『タモリ倶楽部』と言えば、何を置いてもオープニングだろう。誰もが一度は耳にしたことのある曲は、1958年にザ・ロイヤル・ティーンズが歌い、全米3位と大ヒットした「ショート・ショーツ」である。あれ、何を歌っているのかというと、男女の掛け合いになってて、男たちが「ショートパンツ履いてるの、誰よ?」と問うと、女たちが「うちら、みんなショートパンツよ!」―― みたいなやりとりをずっとやっているだけである(笑)。
ちなみに、作曲したボブ・ゴーディオは、後にフォー・シーズンズに加入し、67年に「君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You)」を作曲する。僕らには、82年にボーイズ・タウン・ギャングがカヴァーしたバージョンが馴染み深いが―― 稀代のヒットメーカーなのだ。
そう、こんなセンスのいいオールディーズを持ってきて、ピタリとハマるのがインテリ番組の証左である。ちなみに、『タモリ倶楽部』って、タモリさんが自分の趣味を、番組を利用してやっているようにも見えるが―― 実はアレ、全てスタッフが用意した企画。「何をすれば、タモリさんが喜んでくれるか?」を皆で考え、それをタモリさんが自分のフィールドに寄せて、遊んでくれる。そんな信頼関係が、同番組の長寿の秘訣なんです。
吉永小百合サンを追って、早稲田の二文へ
ここで、タモリさんのデビューに至る軌跡を簡単に振り返っておこう。
本名・森田一義。生まれは1945年8月22日、福岡県福岡市の出身である。一応、戦後世代だが、終戦の一週間後の出生というのが凄い。高校は筑紫丘。僕は地元なのでよく知ってるが、県下でも指折りの進学校だ。実際、タモリさんは一浪後、65年に早稲田大学第二文学部、通称 “二文” に合格する。ちなみに志望動機は、あの吉永小百合サンも受験したから(笑)。そんなサユリスト・タモリさんは在学中に一度だけ、学食で早百合サンと遭遇したという。
大学でタモリさんは「モダンジャズ研究会」に入った。しかし、早々にトランペットは諦め、その喋りの上手さを買われて、ステージの司会を担当するようになったそう。これが上々の評判となり、そこからタレント業へ繋がるかと思いきや―― 学費を滞納して、2年で大学を抹籍。
タモリさんは実家の福岡に戻り、保険会社へ就職する。ここで、3年間ほど外交員として働き、その間に同僚の女性と結婚。もはや普通のサラリーマンだ。ここからどうやって、稀代のタレント「タモリ」に繋がるというのだろう?
最初の転機は山下洋輔との出会い
その後、タモリさんは旅行会社に転職する。そして系列のボウリング場の支配人になった。時に1971年―― 世はボウリングブーム真っ盛り。この時点でタモリさんは20代半ば。タレント業に繋がる活動は何もしておらず、しかも勤務地は大分県の日田市である。まさか、この5年後、東京で『オールナイトニッポン』のパーソナリティをやっていようとは、人生、何が起きるか分からない。
転機は意外な形でやってくる。
時に72年、再び転職して、博多で喫茶店のマスターを始めたタモリさん。ある日、福岡へコンサートでやってきた山下洋輔サンらと偶然、ホテルで知り合う。打ち上げ部屋のドアが半開きだったので、飛び入りで「4か国語麻雀」などの持ちネタを披露すると、これが大ウケ。たちまち「福岡にタモリあり」とミュージシャンたちの間で評判になり、彼らが福岡へ公演に来る度に遊ぶ仲になった。
赤塚不二夫との出会い、そして奇妙な居候生活へ
そして運命の年、1975年を迎える。
この年の8月、山下洋輔サンらの誘いで、新宿ゴールデン街の「ジャックの豆の木」で独演会をするために、彼らから旅費をカンパしてもらって上京したタモリさん。そこへ、噂を聞きつけ、やってきたのが赤塚不二夫サンだった。
初めて目にする “密室芸” の数々に、手を叩いて喜び、涙を流して笑う赤塚サン。2時間の独演会が終わるころには、すっかりタモリさんの才能に心酔しきっていたという。
「この男を福岡に帰したくない」
赤塚サンは思わぬ行動に出る。自分は仕事場に寝泊まりし、自宅のマンションにタモリさんを居候させたのだ。しかも奥さんも呼ばせて、夫婦で。実質、タモリ夫妻に4LDKの自宅を貸したようなものだった。さらに毎月のお小遣いまであげ、飲み屋へ連れて行っては、芸能界の関係者らにネタを見てもらった。その甲斐あって、翌76年、田辺エージェンシーと正式契約。タレント・タモリの誕生である。30歳での遅咲きのデビューだった。
運命の「徹子の部屋」、芸能界入り8年で『紅白』司会に
ここからタモリさんは、異例のスピード出世を遂げる。
まず76年4月、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『空飛ぶモンティ・パイソン』でテレビデビューを飾ると、それを皮切りに『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系)にもレギュラー出演。さらに同年10月、『オールナイトニッポン』のパーソナリティに就任する。
そして77年には、あの運命の番組のゲストに呼ばれる。『徹子の部屋』(テレビ朝日系)である。この時に披露した密室芸の数々が黒柳サンのツボにハマり、翌年から年末最後のゲスト出演が恒例に――。
80年になると、今度は永六輔サンの誘いで、初めてNHKの番組レギュラーに抜擢される。『ばらえてい テレビファソラシド』だ。当初、その “密室芸” がお茶の間から不安視されるも、意外にも公共放送との相性の良さを発揮する。そう、タモリさんの芸の根底には知性があった。インテリ芸人・タモリの覚醒だ。
また、この時期、日本テレビでキャリア5年ながら、師匠の赤塚不二夫サンと共に『お笑いスター誕生!!』の審査員を務める。そして翌81年、同局でメイン司会の番組『今夜は最高!』をスタート。インテリ芸人ぶりに磨きをかける。
気がつけば、すっかり売れっ子タレントになっていたタモリさん。82年10月には、冒頭の通り、わずか5日違いで2つの長寿番組『笑っていいとも』と『タモリ倶楽部』をスタートさせる。
極めつけは、83年の大晦日だろう。芸能界のキャリア8年ながら、『第34回NHK紅白歌合戦』の総合司会へ抜擢されたのだ。同局のアナウンサー以外の人物が総合司会を務めるのは、史上初の快挙だった。
思えば、76年のデビューから、たった8年で紅白の総合司会へ。稀代のインテリ芸人・タモリさんゆえの快挙である。その軌跡は、「黄金の6年間」とほぼ重なる。インテリの時代が、インテリの芸人を呼び寄せたのだ。
仮にデビューが前後5年、どちらかにズレていたら―― 今のタモリさんはいなかったかもしれない。
※2020年10月11日に掲載された記事をアップデート
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2022.10.04