惜しくも今夏他界された作曲家・平尾昌晃の告別式が営まれた(2017年)10月30日、布施明、五木ひろし、小柳ルミ子ら、平尾の曲でスター歌手となった錚々たる顔ぶれが列席する中、読売ジャイアンツ特別顧問の原辰徳が弔辞を読むシーンを見ながら、35年前に出された氏の歌手デビュー曲のことを久しぶりに思い出した。
そう、原辰徳もまた平尾が楽曲を提供した歌手、いわば平尾チルドレンのひとりだったのである。
東海大相模高校時代に甲子園のヒーローとなった原は、その後東海大学へ進学し、1980年のドラフト会議で巨人軍への入団が決まる。背番号は前年で引退した高田から受け継いだ8番。大型ルーキーの応援歌「エイトマン・タツノリ」は、アニメ『エイトマン』の替え歌をビリーとスーパーヒーローズが歌って1981年6月にシングル盤が出された。原は期待に応えて新人王を獲得し、2年目の1982年もホームランを33本も打つ活躍を見せる。
そしてその年のシーズンオフ、巨人の若大将に元祖・若大将の加山雄三が曲をプレゼントという大きな記事が報知新聞に掲載された。いよいよ本人の歌手デビューが伝えられたのである。それは、ジャイアンツファンで加山雄三ファンでもあった自分にとって、とびきりの朗報。当時よく放映されていたプロ野球選手による歌合戦での原の十八番は「ぼくの妹に」であった。
その記事から、てっきり加山の提供曲がシングルリリースされるものと思っていたら、年も押し迫った12月25日に発売された歌手・原辰徳のデビューシングルは、平尾昌晃作曲による「どこまでも愛」という曲でちょっと気が抜けた。が、曲を聴いてすぐに納得したのは、山上路夫の詞に爽やかなメロディが乗せられ、それこそ加山雄三っぽい感じに仕上がっていたからだ。
やはり平尾が曲を書いたB面の「サム」は、ジャケットの写真にも映っている当時の原の愛犬の名前で、作詞は山川啓介。奇しくも同じ2017年に天国へと旅立ったふたりが作詞と作曲を手がけた作品だった。
そして加山がペンネームの弾厚作名義で作曲した「恋人は一人」は、同時発売のアルバム『サムシング』に収録された。作詞は岩谷時子。シングル盤ではなかったものの、原辰徳版「君といつまでも」とでもいえそうな三連の甘いラブソングが嬉しかった。
アルバムは、A面1曲目に配された長渕剛作曲の「ありふれたLOVE SONG」をはじめ、吉田拓郎作曲の「季節の風の中で」、さらに沢田研二が「恋はうたかた」「いくつもの季節」の2曲、堀内孝雄が「僕の胸に駆けてこい」「夢の恋人よ」の2曲、平尾もシングル曲以外のもう1曲「いつか君を乗せて」と、全10曲で構成されている。
全て書き下ろしで、デビューアルバムからこんなに錚々たる作家陣が揃うのは異例のことだったろう。原のヴォーカルはそこそこ聴かせるも、上手過ぎず素朴なところがいい。レコードの作りも手が込んでおり、当時CM出演していた明治製菓や味の素、大正製薬といった企業タイアップによる写真集と大型ポスターが封入された豪華仕様。
カセットテープ版は同じ素材ながらサイズと形式が異なり、ポートレート・カード8枚とスタンド、さらにポスターが付くバラエティセットのような楽しい作りで、両方とも買ってしまった熱心なファンもいたことだろう。何を隠そう自分もそのひとり。
原辰徳関連の音盤はドキュメンタリー以外にも、学生時代の応援歌「奇跡を起せ風雲児」を鈴木しげるという歌手が歌った東宝レコード盤や、その鈴木しげるが作詞し、岡田大介という子役が歌った「あこがれの辰徳お兄ちゃん」が東芝EMIから出されていた。
本人がレコーディングに参加したものでは、かつて王貞治や星野仙一も歌ったセントラルリーグ讃歌「ビクトリー」が1984年に新録音され、コロムビアからリリースされている。阪神の岡田彰布、広島の高橋慶彦、中日の宇野勝、大洋の遠藤一彦、ヤクルトの荒木大輔と共に細川たかしのバックコーラスを務めた。懐かしい選手名に時代が感じられる。
『サムシング』は1995年に初めてCD化されたが、原辰徳はその後レコーディングの機会を得ていない様子。カラオケなどで磨きがかかったに違いない自慢のノドをいつかまた聴かせていただきたいものである。
2017.11.11
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