山本達彦のスマッシュヒット「LAST GOOD-BYE」
1982年7月1日にリリースされた「LAST GOOD-BYE」のスマッシュヒットにより脚光を浴びた山本達彦は、当時、シティポップスの貴公子と呼ばれた(80年代初頭はシティポップではなく、シティポップスと呼ばれていた)。
甘いマスクで、小学校から高校まで名門暁星学園で学び、成蹊大学に進学。当時の時流だったソフィスティケートされたAOR系のサウンドで颯爽と登場したという印象が強いから無理もないが、山本の音楽経歴は、そんな甘いベールでは隠し切れない、険しく渇望に満ちたハードボイルド的なものだったように思う。
「LAST GOOD-BYE」は、石原良純がデビューとなったアクション映画『凶弾』の主題歌だった。この映画はアクション映画の旗手として70年代より松田優作と何度もタッグを組んだ村川透が監督。少年院出身の青年が瀬戸内海でフェリーを乗っ取った「瀬戸内シージャック事件」を題材にしている。ちなみに松田優作も1978年にリリースされた自らのセカンドアルバム『Uターン』の中でこの事件をモチーフにした「あいつを撃つな~広島シージャック 川藤に…」というスリリングな佳曲を遺している。
そんな物語の世界観に「LAST GOOD-BYE」は良く似合っていた。山本の都会的で洒脱、洗練されたラグジュアリーな空気感を醸し出す貴公子のイメージとは相反するハードボイルドな匂いを当時感じたものだ。例えるならば、松田優作主演TVシリーズ『探偵物語』の主題歌がSHOGUNの「BAD CITY」であり、同じく『プロハンター』の主題歌がクリエーションの「ロンリーハート」であったように。
最初から貴公子ではなかった、音楽性を確立するために歩んだ道のり
後に知ることになるのだが、山本の音楽経歴もまた、「貴公子」というキャッチフレーズとは程遠く、自らの音楽性を確立するまでに決して平坦ではない道のりを歩んでいる。
キャリアのスタートは大学時代に結成したバンド「オレンジ」。TV出演をきっかけにムッシュかまやつに見初められ、ムッシュ自身が作曲を手掛け、なかにし礼が作詞したデビュー曲が「翼のない天使」だった。この曲は、ドメスティックな歌謡曲に寄り添い、より多くの大衆をターゲットに作られたアップテンポな楽曲だったが、ヒットには及ばず、オレンジは1976年に解散。
そして1978年の自身のソロデビュー曲「突風~SUDDEN WIND~」は、ニューミュージックの時代を象徴するような抒情的なメロディの中にどこか達観した内省的な歌詞が特徴だった。つまり、シティポップスの貴公子と呼ばれた山本の印象とはかけ離れている。
山本達彦をハードボイルドと感じる理由とは?
「LAST GOOD-BYE」もまた、シティポップスの持つ都会的な印象を持ちながらも、スリリングなピアノのイントロがハードボイルドを想起させる。
以前僕は、リマインダーに
『寺尾聰「ルビーの指環」都会をタフに生きる男にはシティポップがよく似合っていた』という原稿を寄稿した。1966年にザ・サベージのベーシストとしてレコードデビュー、70年代も音楽活動を地道に行い、1981年に大ブレイクした寺尾聰と同じように、山本達彦もまた、タフに、したたかに音楽活動を続けたからこそ巡り合ったものだ。それは決して自身のスタイルと時流が嚙み合いヒットに至ったという幸運ではない。ラグジュアリー感とは程遠いタフでハードボイルドなものだった。
山本は「LAST GOOD-BYE」のヒットに続き、翌1983年3月1日に「MY MARINE MARILYN」(作詞:山川啓介、作曲:NOBODY)をリリース。マージービートの大きな影響を受けたアップテンポの曲調の中、「気の早い夏に はらはらとジェラシー」「ココナツの素肌 この胸泳げよ」と言った時代に即したリゾート感溢れる歌詞でありながらも、どこか寂しさを纏う。そこに “軽妙なサウンド” という言葉だけでは語れない “男くささ” を感じたのは、ハードボイルドな山本の本質を垣間見られたからなのかもしれない
また、「LAST GOOD-BY」のヒットは山本に大きな転機をもたらし、以降、1982年から87年までにリリースされた7枚のアルバムすべてがオリコンTOP10入りを果たしている。
そして、現在も “シティポップスの貴公子” のキャリアは進行中だ。活動の中心はライブ。日本武道館公演を頂点とし、近年のツアーにおいては、コロナ禍々の影響下ライブ配信も試みている。また、2018年にはデビュー40周年を記念するメモリアルCDボックスセット「Life is Music」をリリース。その音楽への向き合い方は限りなくハードボイルドだ。
2021.03.04