6月30日

近藤真彦「ハイティーン・ブギ 」を大ヒットに導いたもう一人の山下達郎って誰?

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「世界の〇〇」に欠かせない “優れたマネージャー”


優れたクリエイターには、優れたマネージャーが欠かせないという。
ここで言うマネージャーとは、英語の「manager」―― 経営者という意味合いである。

例えば、一代で「世界のホンダ」を築いた本田宗一郎。その陰に、宗一郎から実印を預けられ、営業の全権を委ねられた副社長・藤沢武夫の存在があったのは、知る人ぞ知る話。一介の町工場を世界的企業に成長させた藤沢の経営手腕があったからこそ、かの天才エンジニアは安心して、好きなレースや新車開発に没頭できたのである。

「世界のソニー」も同様だ。創業者である天才技術者・井深大の傍らには、営業の全権を担う名参謀・盛田昭夫が並び、2人の卓越したコンビワークが、従業員20数人で船出した若きベンチャー企業を、瞬く間に世界的企業に押し上げたのである。先の宗一郎同様、名マネージャーの存在が、天才・井深を技術開発に没頭させたのだ。

あのスタジオジブリもそう。天才アニメ作家・宮崎駿の傍らには、常に名プロデューサー・鈴木敏夫が控え、鈴木Pが予算やスケジュールなど作品に関する面倒なマネージメント一切を引き受けることで、「世界のHAYAO」は純粋にクリエイティブワークに没頭できたのである。

そして―― 今回のコラムの主人公の一人である、かの山下達郎サンもそうだった。才能ほとばしる若き音楽職人が、やがてヒットミュージシャンとしてスポットライトを浴びる過程において、マネージメントの面で名ディレクター・小杉理宇造氏が果たした役割は少なくない。いわば、もう一人の山下達郎とも――。

山下達郎と小杉理宇造の出会い


この物語は1976年3月に始まる。
時に、山下達郎サンや大貫妙子サンらで構成された伝説的インディーズバンド “シュガー・ベイブ” の解散コンサートが荻窪ロフトで行われた際、そこへたまたま見学で訪れたのが、RCAレコードの新人ディレクター・小杉氏だった。彼は初めて見る達郎サンのパフォーマンスに感動し、契約を申し出る。

だが、既に達郎サンはCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)と契約直前の身だった。普通なら諦めるところだが、小杉氏は粘った。そして、達郎サンから「ニューヨークで、敬愛するフォーシーズンズのプロデューサー、チャーリー・カレロの下でレコーディングできれば……」という条件を引き出す。ほとんど、竹取物語でかぐや姫が求婚者たちに出したお題のレベルである。要は、体のいい断り文句だったのだろう。

ところが、小杉氏はこれを真に受け、実際にニューヨークに渡り、米国RCAに問い合わせ、チャーリー・カレロの連絡先を入手する。そして、レコーディング中の彼のもとへ直談判に押しかけた。わざわざ日本から来た熱意が通じたのか、チャーリーはオファーを快諾。かくして、達郎サンのRCA入りが決まった。

ソロミュージシャン山下達郎のデビューアルバム『CIRCUS TOWN』はA面がニューヨークでのレコーディング、B面は小杉氏の旧知のジョン・サイター&ジミー・サイターのサイター兄弟をプロデューサーに迎え、ロサンゼルスでレコーディングされた。当初は全てNYで録音する予定だったが、予算の都合上、半分はロスに――。とはいえ、全編米国制作の異例の厚遇ぶりには違いなかった。

しかし―― 残念ながら、同盤は売れなかった。手前味噌で恐縮だが、達郎サンが世間のスポットライトを浴びるタイミングもまた、あの「黄金の6年間」と符合する。東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。

黄金の6年間に符合する山下達郎のブレイク


達郎サンのブレイクの兆しは、1978年12月リリースの3枚目のアルバム『GO AHEAD!』に入った一曲「BOMBER」が、大阪のディスコで火が点いたことに端を発する。そのひと月前の11月には、同じRCA繋がりで新人・竹内まりやサンのデビューアルバム『BEGINNING』に「夏の恋人」を提供。2人の出会いはここに始まる。

そして―― 1980年5月、あの伝説のシングル「RIDE ON TIME」をリリース。同曲はマクセル・カセットテープのTVコマーシャルのタイアップ曲として書かれ、更にそのCMに山下サン自身も出演。これを仕掛けたのが、達郎サンのA&R(Artists and Repertoire=アーティストの楽曲制作からプロモーション全般を担う責任者)を務める、先の小杉理宇造氏だった。ここに至り、達郎サンは遂に世間に見つかり、オリコン3位とブレイク。更に同曲が収められたアルバム『RIDE ON TIME』が同年9月に発売され、こちらはオリコン1位に――。

同年12月、達郎サンは一人多重録音のアカペラアルバム『ON THE STREET CORNER』をリリース。同シリーズはその後、パート3(1999年)まで作られ、自身のライフワークとなる。更に1982年1月には名盤『FOR YOU』を発売。オリコンチャート3週連続1位に加え、年間アルバムチャートでも2位を獲得。ここへ至り、達郎サンは実力・人気とも評価を盤石にする。

1982年は、達郎サンにとってエキサイティングな1年になった。4月にテレビドラマ『あまく危険な香り』(TBS系)の同名主題歌をリリースすると、翌日には、竹内まりやサンと東京・六本木の出雲大社東京分祠にて結婚。6月には、フランク永井のシングル「WOMAN」をプロデュースして、更に同月、近藤真彦の7枚目のシングル「ハイティーン・ブギ」へ楽曲提供。秋には、朋友・小杉理宇造氏が独立して設立したレコード会社、アルファ・ムーンにミュージシャン兼役員として移籍する。チャート1位の大物ミュージシャンの英断に、業界は大騒ぎになった。

そして、1983年―― 4月に移籍第一弾シングル「高気圧ガール」をリリースしてスマッシュヒットを放つと、6月には移籍後初のアルバム『MELODIES』を発売して、オリコン1位と結果を残し、移籍によるセールス不安を完全に払しょくする。極めつけは、暮れの12月、のちにロングヒットとなるシングル「クリスマス・イブ」をリリース――。

近藤真彦とヤマタツがクロスオーバー


かくして、黄金の6年間の山下達郎サンは、結婚やレコード会社移籍などのビッグイベントを経験しつつも、本業である音楽活動において着実にヒットを量産。そんな中、同時代の象徴とも言える“クロスオーバー”を感じさせる出来事が、1982年の近藤真彦―― マッチへの楽曲提供だった。

達郎サン曰く「ミドル・オブ・ザ・ロード・ミュージック(※ポピュラーソングの意)でヒット曲は大事」の通り、「ハイティーン・ブギ」はオリコン5週連続1位と大ヒット。作詞・松本隆、作曲・山下達郎の座組は、この15年後に再びKinKi Kidsのデビューシングルで組むことになる。

それにしても―― 何ゆえ、達郎サンはマッチの曲を書いたのか。その答えは、2人ともRCAの所属(当時)であり、担当A&Rが同じだったから―― 即ち、2人の懸け橋となったのが、先の小杉理宇造氏だった。

筒美京平をリスペクト! 近藤真彦「ハイティーン・ブギ」


 海辺にバイクを止めて
 一瞬マジにお前を
 抱いた Lovely Night
 俺たち傷だらけでも
 やさしさだけは捨てずに
 生きて 来たぜ

さて、近藤真彦―― マッチのシングルは、達郎サンが担当するまで、全て筒美京平サンが作曲していた。言わずと知れた “キング・オブ・歌謡曲”。1970年代、日本の音楽界は「あちら側」と「こちら側」に分けられ、その構図は主にフォーク派やロック派から発せられ、彼らは自作の曲を演奏する自分たちを「こちら側」と呼び、当時の日本の音楽界のメインストリームであるレコード会社と職業作家主導の“歌謡曲帝国”を「あちら側」と敬遠したのである。その「あちら側」の象徴が筒美京平サンだった。

ところが―― 面白いことに、フォーク派やロック派の中には、当の筒美京平サンを信奉する人々が少なくなかった。細野晴臣サンや大瀧詠一サン、山下達郎サンらもそう。70年代後半になり、次第に2つの世界の垣根が崩れてくると、両者は個人レベルで急接近した。達郎サンも、京平サンにはプライベートでよくかわいがってもらったという。

 お前が望むなら
 ツッパリも止めていいぜ

そんな次第で、1982年―― マッチの新曲のバトンが達郎サンに渡った時、達郎サンはそれまで京平サンが築いた道をリスペクトしつつ、いかに自分らしさを付加するかに頭を悩ませたという。マッチの曲を全て聴き込んで声質を分析した上で、「もし、京平さんだったら、どういう曲を書くだろう?」と。同曲を一聴して、筒美メロディの匂いがするのはそういう理由である。

先日発売された雑誌『BRUTUS』の「山下達郎の音楽履歴書」の中で、達郎サンは京平サンの作曲技法について、こう分析している。「Aメロ、Bメロ、C、D、E、F…… と、一曲の中にたくさんパートがあるんです。『どうしてA、A、B、Aのような様式的な手法で作らないんですか?』って伺ったことがあって、そうしたら『たくさんあった方が楽しいじゃない』(笑)」

―― その影響だろうか、同曲は明らかにサビと思われるパートが2つもある。Cメロがサビと思わせておいて、真のサビはその次のDメロなのだ。

 俺はこわいもの知らず
 ケンカなら負けないけど
 この愛を失くすことだけ
 こわいのさ

―― そう、この「♪俺はこわいもの知らず~」から始まるCメロは、明らかにサビの高揚感がある。初めて聴くと、ここをサビだと勘違いする。

 ハイティーン・ブギ
 未来を俺にくれ
 ハイティーン・ブギ
 明日こそお前を
 倖せにしてやる

思うに―― これ、達郎サンなりの京平サンへのリスペクトじゃないだろうか。Aメロ、Bメロと来て、次のCメロでサビと思わせつつ、更にタイトルフレーズが繰り返されるDメロを持ってくる――。現に、松本隆サンが書いた1番のシメの言葉(同曲は曲先である)は、そんな達郎サンの心情を代弁しているようにも思える。

 これで決まりさ

―― なんてね。

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2022.06.30
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カタリベ
1967年生まれ
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