マニア垂涎の全40作品がラインナップ
1963年(昭和38年)に創立したクラウンレコード(現:日本クラウン)からリリースされた歌謡曲を復刻するプロジェクト『昭和歌謡復刻シリーズ』の第6弾が配信解禁されている。歌謡曲がミュージックシーンの中心的存在だった昭和40〜50年代の作品に焦点をあて、配信にて復刻するアーカイブ企画。
前回でいよいよ男性歌手&グループサウンズが解禁されたが、今回も、高木たかし「東京・ア・ゴーゴー」、ザ・ジェノバ「サハリンの灯は消えず」、吉幾三「俺はぜったい!プレスリー」等、マニア垂涎の全40作品がラインナップされた。日本クラウンのYouTubeチャンネル『昭和レトロ 歌謡秘宝館』では全楽曲のオフィシャルオーディオ(公式試聴動画)が順次公開されている。
ご当地ムード歌謡「歌舞伎町ブルース」がスマッシュヒットに至った手塚しげお
手塚しげおは子役時代を経て、1959年に日本テレビ系の少年向けドラマ『矢車剣之助』で主役に抜擢されて人気を得る。当時は本名の手塚茂夫名義で活動していた。1962年には男性アイドルグルーブの元祖、スリーファンキーズへ高橋元太郎と入れ替わりに加入して第2期メンバーとなる。この時から名前も平仮名に。
スリーファンキーズ時代にも東芝レコードからソロシングルを出していたが、グループが解散後の1966年には正式にソロシンガーへ転向してクラウンレコードの所属となり、1969年までに7枚のシングルをリリース。今回はAB面合わせて14曲がすべてラインナップされた。
大きなヒット曲こそなかったものの、1966年11月にリリースされた東京・新宿のご当地ソングのムード歌謡「歌舞伎町ブルース」がスマッシュヒットに至ったようだ。その後は俳優業に専念し、時代劇や刑事ドラマのほか、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』シリーズなど子供向け番組にも多数出演している。
巷のエレキブームに乗っかった新展開を見せた高木たかし
高木たかしは日本コロムビアからの移籍組。1962年12月に「この街を出てゆこう」でデビューしてコロムビアから8枚のシングルを出した後、創立時のクラウンに移籍。第1回発売の内の1枚を飾った。クラウンの青春歌謡歌手としては山田太郎と同期で、エースとなる西郷輝彦よりも早い。
この時期は「高校三年生」で青春歌謡ブームを牽引したコロムビアの舟木一夫が、第3弾の「学園広場」をヒットさせていた頃にあたる。最初のシングル「故郷のお母さん / 星の中の湖」から8枚目の「東京の夕焼け」までは一貫して郷愁をそそる正統派青春歌謡であったが、次の「俺の涙とあの娘の涙 / 恋のエレキ」で巷のエレキブームに乗っかった新展開を見せる。
1966年元日リリースの「東京・ア・ゴーゴー」は、米山正夫作曲によるエレキ歌謡屈指の傑作で、ザ・スパイダースのリーダー、田辺昭知が編曲を手がけている。スパイダースも主題歌を歌った(ヤング&フレッシュ、浜田光夫との競作)日活のエレキ映画『青春ア・ゴーゴー』に先駆けての発売だった。続いて出された「涙のドラム」も、やはり米山正夫作のエレキ歌謡となった。クラウンでの活動は1967年までで、1970年代にはビクターとテイチクからシングルをリリースしている。
ダニー飯田とパラダイスキングのスマッシュヒット「ひかげ者 / 土曜日はきらい」
1960年代に東芝レコードで多くのカバーヒットを連ねたダニー飯田とパラダイスキングは、1966年にクラウンへ移籍。最初のシングルは唱田久美子をメインボーカルに迎えた「恋のオカリナ」だった。そして星野哲郎が作詞した次の「ひかげ者 / 土曜日はきらい」がスマッシュヒットとなる。「ひかげ者」は東芝時代から活躍していた増田多夢、「土曜日はきらい」は唱田久美子がメインの曲。
1967年には、後にアニメ『デビルマン』の主題歌を歌うことになるメンバーの十田敬三がメインの「辛い別れ」が出された。1969年の「ロマンチカ・ラ・神戸」も、パラダイスキングのムードコーラスグループとしての一面が垣間見られる佳曲である。さらに特筆すべきは、怪獣ブーム下に日活が製作した『大巨獣ガッパ』の挿入歌「がんばれ仔ガッパ」をパラダイスキングが歌っていたこと。作曲は『嵐を呼ぶ男』をはじめ、日活映画の音楽を数多く手がけていた大森盛太郎であった。もちろん、美樹克彦が歌った主題歌「大巨獣ガッパ」もしっかりラインナップされていて嬉しい。こちらの作曲は米山正夫で、1967年4月のリリース。
「勉強セー」で一転してコミカルな路線に乗り換えた、ザ・ハングリィ・ボーイズ
後藤芳世と、あい原信寿によるザ・ハングリィ・ボーイズからは、シングルが3枚。『クラウン・フォークソング大会』の東京地区入賞をきっかけにデビューした日大生のデュオで、フォークソングの定期コンサート『シャイアン』にレギュラー出演していた。デビュー盤は1967年リリースの「星降る渚」。
2枚目の「涙が出るのさ」はGS(=グループサウンズ)寄りの正統派フォークだったが、3枚目の「勉強セー」で一転してコミカルな路線に乗り換えたのは「帰って来たヨッパライ」を大ヒットさせていたフォークル(=ザ・フォーク・クルセダーズ)の影響であっただろうか。しかし次の「今、君はここにいる」では再び軌道修正された。
カルトGSの代表的な1曲「サハリンの灯は消えず」
そして、GSからはザ・ジェノバ。クラウンの専属作曲家だった北原じゅんの門下生の中から選ばれたメンバーで構成されたバンドで、北原がサハリン(樺太)出身であったことから、ロシア、サハリンに特化したサウンドが繰り広げられた。異色作「サハリンの灯は消えず」はカルトGSの代表的な1曲として知られている。ひたすらアグレッシブな「さよならサハリン」も突き抜けた傑作である。
ミッキー・カーチスとザ・サムライズも従来のGSとはかなり異なり、ニューロックと呼ぶべきバンド。ロカビリー後のミッキー・カーチスが一時期の東南アジアでの活動から帰国して1967年に結成したバンドで、山内テツや原田裕臣が在籍していた。日本でのレコーディングを終えた後にヨーロッパへ活動拠点を置き、1970年にまた帰国して翌年に解散している。
異国情緒漂う「風船」と「太陽のパタヤ」は彼らの最初期の作品。当時は革新すぎてヒットには至らなかったが、後に再評価されて中古レコード市場でも常にプレミア価格が付けられている。
出光功のソロデビュー曲「想い出の赤いパラソル」
ドゥーディ・ランブラーズは、ザ・フォーク・クルセダーズ以前のはしだのりひこが、同志社大学の学生だった藤原洪太、田平義昭と共に1964年に結成。唯一のレコード発売となった「真っ赤なリボンとおさげのあの娘 / 戦いは一度でいい」は1967年6月リリース。「戦いは一度でいい」は全編英語詞によるもの。この直後に加藤和彦から誘われて、はしだは1年間限定の活動だったザ・フォーク・クルセダーズに参加する。
「想い出の赤いパラソル」はこのあとザ・クーガーズのメンバーとなる出光功のソロデビュー曲。本名を溝口伸郎といい、後に岡田有希子のチーフマネージャーを務めた人物でもある。1967年5月リリース。
吉幾三の再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」
最後は、後に改名してブレイクすることになる山岡英二。デビュー曲となった1973年の「恋人は君ひとり」はヤンマーのロータリー船外機のCMソングだった。芸名の山岡英二も、ヤンマーの社長の苗字であった “山岡” と、ロータリーエンジンの “エイジ” に由来するとのこと。2枚目のシングル「君は無敵の三冠王」は1973年のプロ野球で三冠王を獲得した読売ジャイアンツの王貞治を讃えた歌で、もともとは1965年に南海ホークスの野村克也が戦後初の三冠王に輝いた際に山田太郎が歌った作品のリメイク版になる。
しかし、これらのアイドル路線は惜しくもヒットには至らず、1977年11月に吉幾三と改名して出した自作による再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」がヒットしたのだった。松竹で映画化された『俺は田舎のプレスリー』『俺は上野のプレスリー』には吉も出演している。いずれも山田洋次の原案で、『男はつらいよ』シリーズの第21作、22作と同時上映された。
▶ 音楽シーンのコラム一覧はこちら!
2026.06.25