前々回、土屋昌巳さんの 3rd アルバム制作時のロンドン(1987年夏)が、自分にとっての3回目の海外レコーディングだと書いてしまいましたが、違ってましたー… その少し前に、“GONTITI” の 6th アルバム『マダムQの遺産(Legacy of Madam Q)』のミックスダウンのために、ニューヨークに行っていました。正しくはこちらが3回目。どうだっていい、とおっしゃるでしょうが、一応訂正しておかないと居心地悪いので。
GONTITI については、以前、
4th アルバム『Sunday Market』(1986年4月)のことまで書きましたが、その後、“アコースティックギター=夏=ビーチ=トロピカル…” 的な、通俗的類型的色眼鏡で見られるのがイヤで、わずか半年後の11月には、『冬の日本人』という、寒そうなアルバムをリリースします。ほんま、ヘソ曲がりやなぁ。おかげで、少し広がりかけた売上も、またキュッと引き締まって…。
で、その翌年、87年にリリースしたのが『マダムQの遺産』なんですが、ニューヨークの話をする前に、このアルバムで生まれた、GONTITI とあの加藤和彦さんの “縁” について、語りたいと思います。
と言っても、プロデュースしてもらったり、演奏していただいたわけではありません。このレコーディングで、加藤和彦さんのプライベートスタジオを、何日か使わせてもらったのです。六本木のメインストリート、外苑東通りから少し東側に外れたところにあった、加藤さんのご自宅の地下のスタジオです。当然、通常は人に貸したりしなかったと思いますが、渡辺プロの誰かのつながりで、なんとタダで! 使ってもいいよってことになったのでした。
プライベートスタジオとは言え、住居部分とはしっかり独立していて、専用の入口があり、中に入ると、普通の商用スタジオと変わらない立派な仕様と設備で、とても個人宅とは思えません。いわゆる生活臭は皆無でした。スタジオ内にあった加藤さんの私物(というのも変ですが。スタジオ自体が私物ですから)といえば、マッキントッシュの「プラス」と、マーチンのアコースティックギターくらい。
(いつものように)話が脱線しますが、マッキントッシュの最初のモデルが登場したのが1984年、「プラス」は86年1月の発売ですから、まだまだ珍しく、実物を目にするのはそれが初めてでした。機能は今と比べたら、たとえばジャンボジェットに対する自転車… 以下かもしれませんが、値段のほうは堂々たるもので、日本円で50万円くらいはしましたかね。
で、今更の告白タイムですが、加藤さんの私物なのに、こんなことほんとにいけないのですが、勝手に、触ってしまいました。形からして妙に愛嬌があるし、貧弱な機能にも関わらず、白黒ながら、ヴィジュアル面が優れていて、マウスで簡単に絵が描けるし、ゲームの画面もいちいち凝ってるし、適当な質問をすると何やら哲学的な回答をしてくるものとか、ソフトの発想がいちいちすばらしく、楽しくてしょうがない。みんな夢中になってしまいました。あ、もちろん、レコーディングの合間に、少し、ですよ…。
加藤さん、ごめんなさい。
本筋の、レコーディング作業のほうでは、スチューダー社のアナログ24トラックレコーダー(当時、スタジオで最もよく使われていた機種)が、ある日、突如暴走し、テープがどんどん床に吐き出されてしまうという事件が起こりました。使い方を誤ったわけではなく、我々は何も悪くないし、メーカー保証もあったと思うんですが、タダで使わせていただいているだけに、なんとなく、申し訳ないという気持ちにならざるを得ませんでした。
加藤さん、すみません。
そんな、厄介者感溢れる我々だったのに、加藤さんは、我々に気を遣わせないように、作業中はまったく姿は見せず、自由にさせてくださり、帰り際などに一瞬お会いするだけ、その折も、いつもおだやかに接してくださいました。
それになんと、ある夜、奥さんの安井かずみさんといっしょに、スタジオに手料理を持ってきてくださって。大きな銀の皿から蓋を外したら、たしかローストビーフ。うれしい、というよりは恐縮してしまって、味はよく覚えておりませんが…。
以上が、“GONTITI ✕ 加藤和彦” のエピソードです。私も結局加藤さんとはお仕事したことがなくて、お会いしたのはこの時だけです。
この頃、加藤さんは何をされていたのだろう?『マルタの鷹』というアルバムが1987年12月にリリースされているので、その準備期間ですかね。我々が使わせていただいたあのスタジオで、その後制作されたのでしょう。
加藤さんにとっては、小さな小さなエピソードに過ぎませんが、それだけに、どんな加藤和彦ストーリーにも載ってないでしょう?
2018.11.02