BOØWYが「ONLY YOU」「マリオネット」「季節が君だけを変える」といったヒットを連発し、解散を表明した87年。この年にブルーハーツはデビューし、ラフィンノーズの日比谷野外音楽堂での事故が起こった。RCサクセションはまだまだ現役続行中だった。
もう30年も昔のことであるが、僕からしてみれば、つい最近のことにしか思えない。しかし、この30年での原宿という街の変貌は一世紀分のスピードに値するのではないかと思ったりもする。
87年の4月。高校を卒業したばかりの僕は、表参道のキディランドの手前の路地を入った、ペニーレインというバーの跡にできた寺子屋のような専門学校に通うようになった。ユイ音楽工房という、当時BOØWYや長渕剛が所属していた音楽事務所が運営するライター、編集者を養成する学校だ。
理由は、そこで、原宿クリームソーダの社長、山崎真行氏の半生を描き、後に映画化された『原宿ゴールドラッシュ』の作者、森永博志さんが講師をしていたから。
ペニーレインとは、吉田拓郎の歌う「ペニーレインでバーボン」で一躍有名になったバーの名前。70年代の雰囲気を色濃く残したバーの跡地にできたこの学校は、生徒数も二十名前後と少なく、毎日授業は10時から始まり、昼の3時には終わるといったのんびりしたものだった。
授業が終わる頃になると、一番前の教卓に何枚ものインビテーションカードが並ぶ。
プリンセスプリンセス、UP-BEAT、レッド・ウオリアーズ、THE東西南北、エコーズ、白井貴子…
当時現役の音楽ライターや編集者だった先生たちが出してくれたものだ。ナマの現場をみることが一番勉強になると僕ら生徒に譲ってくれるのだ。お気に入りのカードがあると、平日は人もまばらな竹下通りを抜けて、夕日を背中に浴びながら、原宿の駅にむかった。
この長閑さが当時の原宿の雰囲気そのままだった。キャットストリートは、その名前の由来の通り、猫の額ほどの広さという印象が強い。日中は猫が昼寝をしている遊歩道で、木造モルタルの二階建てアパートばかりが目についた。
学校の裏は、いまでいう裏原。穏田商店街という昔ながらの商店街があり、肉屋や八百屋、小さな家電販売店などが軒を連ねていた。銭湯もあった。昼休みには肉屋の手作り弁当を食べ、放課後に銭湯に行くこともたびたびあった。
そして、一週間の半分は学校の目の前にあった養老乃瀧でビールを飲んでいた。先生たちのおごりだ。当時、18歳が酒を飲んでも誰も咎める人はいなかった。おおらかな時代だ。
放課後、まだ陽の明るい4時頃から飲みはじめ、将来の夢、当時の音楽、BOØWYやブルーハーツ、尾崎豊やラフィンノーズについてなど、青く、結末のない話題を延々と話した。一生のうちで一番ゆっくりとした時間が流れていた。
しかし、80年代の原宿と言えば、表参道へ出ると、70年代から名前を馳せたクリエイター、(そこには、鋤田正義、操上和美、山口小夜子、糸井重里…といった錚々たる名前が並ぶ。)や夢想家たちが根城とした喫茶レオンがあり、表参道を越えて交番の脇の遊歩道(キャットストリートのどんずまり)を歩くと、フィフティーズファッションの聖地、憧れのガレージパラダイス東京(クリームソーダ)があった。
そして、表参道と明治通りの交差点、ラフォーレ原宿の向かいのビルの地下には原宿プラザというロンドンのカムデンロックを思わせる何軒もの店がひしめき合ったマーケットがあり、ロンドン直系の古着やアクセサリーが売られていた。ここが時代の最前衛をなしていのだ。
今考えてみると、80年代には音楽ともに、ファッションも「ロンドン→原宿」という黄金のルートがあり、この感覚が当時原宿を訪れていた多くの人が持つイメージだろう。
つまり、80年代後半、当時の原宿は、市井の人々の穏やかな暮らしと、ヒップなカルチャーの息吹ともいえるうねりのあるクレイジーなエネルギーが共存した奇跡の街だった。
このペニーレイン跡にあった僕らの学校は同年の9月になると、別の店が入るということで、代々木に移転してしまう。そこからは、この専門学校に通った記憶がほとんどない。
原宿に通った87年の4月から9月までの半年間、原宿の穏やかな陽ざしと、明治神宮、東郷神社に囲まれ、深呼吸したくなるような緑の匂いを今でも、ふと思い出すことがある。なんて贅沢な時間だったんだろう。
これが、僕の知っているドリーミーな原宿の原風景。しかし、それは回顧だけではなく、慌ただしい日常で忘れかけていた僕の理想郷でもある。熱いコーヒーを入れなおし、未だに僕にとって特別な存在だった原宿という街に想いを馳せるのも悪くない。
2017.07.09
YouTube / naohappy0616
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