10月21日

心優しきギタリスト、ロン・ウッドが “気の毒な石ころ” だった時代の話

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ロン・ウッドのアルバム「1234」が日本でリリースされた日
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ロン・ウッドのソロアルバム、宣伝にストーンズの名前が使えない!


1981年にザ・ローリング・ストーンズのロン・ウッドが4枚目のソロアルバム 「1234」を発売しました。宣伝から制作に代わって間もない新人ディレクター時代の私が担当したのですが、実は、本国より「このアルバムに関してローリング・ストーンズの名称は一切使用してはならない」という厳しい連絡が入ってました。1975年ミック・テイラーに代わって、メンバーとしてジョインして以来、この時点で6年経過。ローリング・ストーンズの正式なメンバーとして活動しているのに、ホワイ? 何故?

レコード会社が制作する商品及び宣伝資料の中に、“ローリング・ストーンズのギタリスト、ロン・ウッド” と書いてはいけないということです。これには我々も納得できません。

とは言え、言われるがまま “超大物ロックバンド” のギタリストとか、こういう表記をするしかなかったのですが、もちろん、これは我々レコード会社が制作するものに限って… であって、メディアがアルバムを紹介する時 “ローリング・ストーンズの~” と書く分には規制できるわけもありませんし、そこまでのものではありませんでした。

あくまでも業務委託契約、ロニーはストーンズのメンバーじゃなかった!


そしてそれから20年以上経って、初めてその疑問が解けました。1993年1月にビル・ワイマン本人の口から正式にローリング・ストーンズ脱退が表明され、世界中の音楽関係者及びファン達に驚きを与えました。そして後日アナウンスされたこの情報に戸惑いました。“ロン・ウッドの正式メンバー入り” が発表されたのです。何を今さら? 思ったのですが、海外メディアからの情報で全てを理解しました。

つまり、1993年以前の彼はメンバーではあっても、レコーディングメンバーであり、ツアーメンバーでもあったということです。実際、バンドプロフィールにもクレジットされるし、メンバー写真にも並んで写っていますが、ギャランティ的には、仕事の都度受け取るミュージシャンという立場だったのです。もっと突っ込んで言うと、アーティスト印税や興行の利益分配対象者ではなかった… ということです。

サラリーマンの世界に置き換えると分かりやすいのですが、CEOのミックを頂点にローリング・ストーンズ・カンパニーがあるとすると、次いでCOOか常務クラスにキース・リチャーズ。そして取締役にチャーリー・ワッツとビル・ワイマン。この4人だけが、ボードメンバーであり、役員報酬としての印税や興行利益を受け取れるのは、この4枠しかなかったのです。

そう、ロン・ウッドはここの絶対領域に入れない、雇われの身分であったというわけです。社員ならば月額の給料があるはずですし、日本的にいう専属料みたいなものがあるはずですが、それすらありません。仕事の都度雇われていたわけですから、業務委託と言う方が近い表現かもしれません。

ローリング・ストーンズ・カンパニーにおけるメンバーの定義は?


そういうわけで、当時のロン・ウッドのソロ活動はローリング・ストーンズ・カンパニーに一切関係なく、よって名称は使用禁止だったというわけです。

となると、グループに於けるメンバーの定義は何? ということになりますが、ローリング・ストーンズの場合は、印税および利益分配対象者であるということです。メンバーとは、いわば役員であり、共同経営者でもあるもの、ということだったのです。

なんと切ないことでしょうか、気の毒なのは18年間も雇われ立場だったロン・ウッドです。レコーディングメンバーと言っても、どれだけギターを弾こうがビルの代わりにベースを弾こうが、報酬もなければ、もちろんアルバムが売れた時の印税もありません。

ですが、心優しきロン・ウッドは、自分が一番好きなバンドでギターが弾けていることを幸せに思っていました。それにしても、「忍耐強いし、人が良過ぎるだろう!」とつっこみたくなりますね。

7年近くも収入ゼロ! 画家として活動し始めたロン・ウッド


これは本人のインタビューでも確認しましたが、ローリング・ストーンズがツアーをしない限り、彼には収入がないということでした。実は、ローリング・ストーンズは1982年のヨーロッパツアーを最後に1989年のスティール・ホィールズ・ツアーまでコンサート活動を休止していました。つまりこの7年間近く、ロン・ウッドの収入はゼロということを意味します。

いくらフェイセズ時代に稼いでいたと言っても7年間も収入がないのはしびれますね。これだけ有名なロックスターなのに、生活をなんとかしなければいけないというピンチがあったのです。この頃の彼はNYに住んでいたのですが、LAに持っていた家も売却しています。

そして、ロンはこの時にあらためて “自分には絵がある。絵を描こう” と決意しています。ミュージシャンとして活動する以前の彼は、美術カレッジに通う純粋な学生芸術家でしたから、当時は絵画でビジネスをやるということは一切考えてなかったのですが、こういう状況の中、“自分の絵が生活費の足しにでもなればいいな” と思って絵を描き始めました。

当時、実際いくらで取引されてどの程度生活を支えたのかは分かりませんが、最近の彼の絵画は、大きなものでは100万ポンド(約1億3,200万円)の値が付くこともあるほどです。画商によると、絵画に集中するとローリング・ストーンズで稼ぐ以上にお金を稼げるはずだ、とのコメントもあります。

ただならぬ貢献度、ストーンズ解散の危機を救った紛れもない事実


こうしてビル・ワイマンが離脱したことによって、絶対領域だった4枠の一つに空席ができました。そこにロンにあてがわれ、雌伏18年を経て、カンパニーの役員に就任できました。これでアーティスト印税他興行利益分配対象メンバーになれたというわけです。やっと報われました。

長年のバンドへの貢献度からも、それはメンバーなら誰もが認めるところです。特にミックとキースの関係が最悪だった時期の彼の献身的な動きが、バンドを解散から救っていることは明白です。

1985年ミックの初ソロアルバム『シーズ・ザ・ボス』と2枚目の1987年の『プリミティブ・クール』にはさまれた、バンドのアルバム1986年『ダーティ・ワーク』のレコーディング期間前後が最悪の日々でした。ミックはソロライブ活動にも精を出し、キースまでもが1988年ソロアルバムを発表しています。まさにバンドが空中分解しそうでした。

この頃の苦労についてロンは、こういう感じの毎日で汗を流していたようです。どちらかに電話して、「そのまま電話の近くを絶対離れないでくれ。すぐそちらに電話させるから」と。会話が断絶していたミックとキースの間を、いかにロンが根気強く取り持っていたかよく分かります。

欲のない芸術家肌、どれだけ優しくて性格のいい人なんだ!


彼の顔の表情や言動から、本当に欲もなく芸術家肌であることが分かります。長年の待遇のひどさについて意地悪な質問が飛んだ時の返答に、彼に性格が出ています。

「自分から待遇を変えてくれと言ったことはないし、向こうにしても、文句も言わない要求も出さない良い仲間だな、と思われていたんじゃないのかな(笑)。実際50歳過ぎても、見習いみたいなことやってるかもしれないと思っていた。ただ自分は給料袋は見てなかった。ずっと冒険を探していた。それをやっと手に入れた」

どれだけ優しくて、性格がいい人なんでしょう。自分で書いていながら、さらにロン・ウッドのことが好きになりました。

2020.06.01
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