僕がザ・ローリング・ストーンズに夢中になっていた80年代半ば、ストーンズは分裂状態だった。というのも、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの関係が、これまでにないほど険悪な状態にあったのだ。
最初にそんなニュースを耳にしたのは、1985年にミックが初のソロアルバム『シーズ・ザ・ボス』をリリースした時だった。なにやらソロ活動に熱心なミックにキースが腹を立てており、そんなキースにミックも腹を立てているということだった。
実際はもっと複雑にこじれていたのだと思う。でも、どうせ兄弟喧嘩みたいなものだろうと、僕は気にしなかった。ただ、その年の夏に行われた『ライヴエイド』で、同じ会場にいながら一緒のステージに立たなかったことは、今にして思えば象徴的な出来事だった。
1986年の春、ストーンズはニューアルバム『ダーティ・ワーク』をリリースする。それは僕が発売日を指折り数えて購入した最初のストーンズのレコードだった。キース・リチャーズ主導で制作され、スリリングなギターにミックの怒り狂うようなヴォーカルがぶつかる様は、まるで喧嘩でもしているかのようだった。
アルバム完成後、キースはすぐにでもツアーに出ようと考えていたが、ミックがそれを拒否。この頃からふたりの不仲説が、より高い信憑性をもって耳に届くようになった。ミックのソロツアーの噂が流れてくると、「もし俺たち以外とツアーに出るようなら、あいつの喉をかき切ってやる」というキースの怒り心頭なコメントを読んだのも、確かこの頃だったと思う。中には「ストーンズ解散!」の見出しを掲げた新聞もあった。
ますますストーンズの魅力にはまっていた僕は、そんなニュースを淋しく感じながら、オリジナルアルバムを順番に聴いていく毎日だった。
だから、1987年の秋にミックが2枚目のソロアルバム『プリミティヴ・クール』をリリースしたときは、さすがに手放しでは喜べなかった。「もしソロツアーに出るようなら、あいつの喉をかき切ってやる」というキースのコメントを思い出し、「やりかねない」と思った。すると、ミックが地域限定ながらツアーに出てしまったので、僕はミックの身を本気で心配することになった。それでも、1988年の春に実現したミックの来日公演は嬉しい誤算だった。
そして1988年の秋、遂にキースまでがソロアルバム『トーク・イズ・チープ』をリリース。しかも、これが本当に素晴らしいアルバムで、僕は嬉しい反面、いよいよストーンズは終わりだと腹をくくらざるを得なかった。「俺のやることには、あんなに怒ってたくせにな」というミックの辛辣なコメントを読んで、その通りだと思った。そして、もう駄目だろうと。
ところが、この時を境に長かった不仲期間は雪解けを迎えることになる。キースがフロントマンとして自分のバンド=エクスペンシヴ・ワイノーズを率いたことが、ミックの気持ちを理解する一助になったと言われている。実際はそんな単純な話でもなかろうが、長いトンネルを抜けるきっかけにはなったのかもしれない。
1989年に入ると、ミックとキースは、ストーンズのニューアルバム『スティール・ホイールズ』の曲作りのため、バルバドス島で待ち合わせ、再会する。ふたりがギターを持って向き合い笑っている写真を見た時は、どれほど胸を撫で下ろしたか知れない。
多分、もっと早く仲直りすることはできたはずだ。でも、80年代を通じて険悪な関係にありながら、結局その絆が切れなかったという事実は、ふたりにとって大きいのかなと思ったりもする。あれはあれで必要な時間だったのだろう。
とはいえ、ファンにとっては本当に長かった。だから、1989年の夏にスタートしたスティール・ホイールズ・ツアーでの世界的なストーンズフィーバーは、ファンの安堵と歓喜の気持ちの表れだったと思う。そして忘れもしない1990年2月の初来日公演。東京ドームがあれほど揺れたと感じたのは、後にも先にもあのときのストーンズだけである。
最後に2010年に出版されたキース・リチャーズの自伝『ライフ』から、少し長い引用にはなるけれど、この美しい言葉を紹介したい。
「ミックと俺とはもう友だちじゃないかもしれない。そう呼ぶにはいろんなことがありすぎた。それでも、兄弟のなかの兄弟、切っても切れない仲だ。あんな昔から続いている関係をどう表現すりゃいい? 親友は仲良しだ。しかし兄弟は喧嘩する。俺は完全に裏切られた気持ちだった。だが、今俺が書いているのは過去の話だ。遠い昔に起こったことだ。だから、俺の聞こえるところじゃ、他の誰にもミックの悪口は言わせない。そんなやつがいたら、俺が喉をかき切ってやる。」
やりかねない。あのときミックが喉をかき切られなくて本当によかったと思う。
2018.08.17
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