沈着冷静な状況判断で勝負に打って出た“博多最後の大物” ザ・モッズ
1981年6月21日にデビューしたザ・モッズは、今年結成40周年を迎え、今も最前線のロックバンドとしてステージに立ち続けている。
彼らの80年代の軌跡は、そのままロックバンドの革命として現在でも語り継がれている。
博多最後の大物として、ザ・ロッカーズ、ザ・ルースターズに続いてレコードリリースに至った彼らのデビューは、華々しさとは縁遠く、アルバムタイトル『FIGHT OR FLIGHT』のごとく、匍匐前進のように、慎重に周囲の状況を見極め、自分たちの力がどのように効果的に響くのかを沈着冷静に考え、勝負に打って出たバンドだ。
ザ・モッズというバンド名のように、60年代の湿り気のある生粋のブリティッシュビートにパンク的なアプローチを加え、ソングライティングを手掛けるリーダーの森山氏の自らの状況をリアルに描いた歌詞が、ティーンエイジャーの心を鷲掴みにした。
たとえば、ファーストアルバムが、収録曲の「が・ま・ん・す・る・ん・だ」や、「崩れ落ちる前に」といったタイトルからも想像できるように、閉塞感からの脱却がテーマであったのに対し、セカンドアルバム『NEWS BEAT』の中に収録されている「ALL BY MY SELF」の歌詞では、「悪い奴ばかりが いるわけじゃない 俺の周りは こんなにイカシタ顔している」と歌うようになる。
つまり、東京進出前夜と、その後の活動を経た心情の変化が、見事に歌詞に描き出されているのだ。
クラッシュとの親交とFILEレーベル設立、押さえておきたい80年代の軌跡
そして、彼らの80年代の軌跡の中で忘れてはならないのが、一風堂、ジャマイカのレゲェシンガーでクラッシュやUB40とも親交の深いマイキー・ドレッド、そして、クラッシュの日本公演でゲスト出演し、当時、ポール・シムノンのパートナーであったロカビリーシンガー、パール・ハーバーと行動を共にしたFILEレーベルの設立とツアーの敢行だ。
FILEレーベルは「過去の遺産を食いつなぐのではなく、時代に爪を立てて新しい音楽を追及していく」という意義のもと、品川プリンスホテルのゴールドホールでライブを開くなど、新しい試みを次々と実践、ロンドン直系の空気感を醸し出し、東京のニューウェーヴシーンの一躍を担った。
また、このFILEツアーの協賛であり、時代を切り取る最先端であった写真雑誌『写楽』には、頻繁にザ・モッズのグラビアが掲載されていた。時には、少年犯罪の推移のグラフと共に彼らの雄姿が描かれ、ザ・モッズの音が時代を映す鏡であることを強烈にアピールしていたことを思い出す。
ザ・モッズが示唆したロックバンドの方向性
このような活動を経て、ザ・モッズが全国的に認知されるようになったのは1983年9月21日に発売された「激しい雨が」ではないだろうか。この曲はMaxellカセットテープのCMソングに起用され、彼ら自身も出演している。「激しい雨が」の歌詞の中に「何もかも変わりはじめる」という一節がある。
デビューから3年、その間に、自ら事務所を運営し、新人バンドには異例のロンドンレコーディング、ライブ(※)を経て、結成1周年で行われた日比谷野外音楽堂でのライブは伝説の “雨の野音” として強烈な印象を残している。
また、TVの歌番組にも出演。日本テレビ系列の『ザ・トップテン』では、目黒にあるライブハウス鹿鳴館からの生中継で、剃刀を素肌にあてたような危うさと熱狂をお茶の間に持ち込んだ。
こうして、今まで誰も成しえなかったロックバンドの方向性を示唆し、自分たちの周囲の状況、そして、日本におけるロックンロールの概念そのものが確実に変わっていく瞬間を歌に託したのではないだろうか。
空前のバンドブーム、その多くがモッズのスタイルを踏襲
その後1984年には、TVドラマ『中卒東大一直線 もう高校はいらない』の主題歌に5枚目のシングル「バラッドはお前に」が起用され、1986年の11月17日には日本武道館公演を成功させている。
この3年後、1989年に『三宅裕司のいかすバンド天国』の放送がスタートされ、空前のバンドブームが起こるのだが、当時ビートパンクと呼ばれたバンドのほとんどがザ・モッズのスタイルを踏襲したものであった。
ザ・モッズは90年代以降も自らのスタイルを貫きながらも変化を拒む事なく、そして休むことなく音源をリリース。メッセージソングとは一線を画した自らの姿を楽曲に刻み込むというロックンロールの神髄を今でも体現し続けている。
(※)ロンドンにおけるライブは、名門マーキークラブで行われた。3日間連続のライブでは、ポール・ウェラーのアドバイスもあり、NEWS BEATと改名。
2017.05.05