SMAPの「解散」が社会現象になっている。今までどんなバンドやアイドルグループが解散を表明してもこんなことはなかった。
解散したからって世界が終わるわけではないし、生きていればそれでいい。それはそうだ。でも大好きなバンドやグループの解散に直面すると自分の一部分が少しだけ欠ける。その日を境に機能しなくなる。SMAPの解散を想うとき、いつも私の脳裏に浮かぶのはチェッカーズだ。
チェッカーズは83年9月21日にデビューし、92年12月31日に解散した。私はいわゆる年上組(藤井フミヤや武内享)と同い年なので、デビュー当時は大学生。テレビの中の人でしかなく、まさかその後関わりを持つようになるとは夢にも思っていなかった。ライター仕事を始めた頃彼らはもう手の届かない大スターで、取材でやっと会うことができたのはたぶんアルバム『SCREW』が出た88年ぐらいだったんじゃないかと思う。
チェッカーズの取材は大変だった。何しろ時間がない。通常、バンドの取材ならばグループカット、ソロカット、インタビューなど4ページでも2時間はほしい。しかし1時間ほどしかもらえないこともあり(30分で表紙撮影+巻頭特集を作り上げた雑誌もあったらしい)、それで何10ページも作らなければならない。苦肉の策として、メンバーひとりひとりに担当ライターをつけ、空き時間に話を聞く。つまり同時に7人ものライターが必要になる。
私に依頼をくれたのは学研のBEST HITという雑誌で、編集者に誰を担当したいか訊かれて「武内享」と答えた。絶対に話が合いそうだった。少しスケジュールが緩くなってからはフミヤ担当+その他3人でふたりずつ担当というような布陣にもなって他のメンバーの取材もできたが、享くんはずっと担当させてもらった。そしてクロベエとはとうとう話す機会がなかった。
解散を知ったのは92年の夏だ。編集者からの電話でそれを告げられ、最後の取材のスケジュールが入った。取材できるのはBEST HITとあともう一誌だけだという。当日、私は享くんに「解散する理由が思いつかない」と言い、彼は意外そうな顔をして「俺らほど解散の噂が多かったバンドはないと思うよ」と答えた。すべて終わり、メンバーとライター陣が並んで対面する形で挨拶をしたとき、享くんが私のところに来て「今までありがとう」と握手を求めた。そんなことをされたのは初めてで、動揺するに充分だった。
ファイナルツアーの最終日は12月28日の日本武道館。私は円形ステージからメンバーが退場する花道のすぐ脇の席にいた。武道館4日間のチケットはとんでもない争奪戦となり、1枚100万円のダフ値がついたと聞く。本当の最後は大晦日の紅白歌合戦。この観覧チケットもまた同じことになった。トリを務めさせてほしかったと今も思う。
解散の背景については中途半端に知っているだけの人間がここに書くべきではないし、チェッカーズがどんなに魅力的な存在だったかはまた改めたい。あのとき目の前を歩いて行く7人を見送ってから24年がたった。そして25周年のSMAPが解散しようとしている。時間がたてば哀しみは薄れる。それでも一度自覚してしまった欠落とは、もう一生ともに生きていくしかないのだ。
2016.12.29
YouTube / Hodge-podge
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