我が道を行くストリートのヒーロー、BOØWY
1982年3月21日ビクター・インビテーションよりアルバム『MORAL』でレコードデビュー。そこから遡ること約10か月前の1981年5月11日新宿ロフトにおけるデビューライブ『暴威LOFT FIRST LIVE』では、観客がたったの十数名。決して順調とは言えないスタートからブレイクしたサードアルバム『BOØWY』のリリースまでが約4年。その後ドームクラスの国民的ロックバンドになるまでの軌跡は周知の通りだろう。
彼らの軌跡を語る上で出自にどんなイメージがあったのかというのも重要だと思う。当時のビクター・インビテーションには、アナーキーやARB、原宿で生まれたロカビリーバンド、ブラック・キャッツなどが在籍していた。つまりインビテーションというレーベルは、メジャーの枠にははまり切れない、極めてストリートの匂いがする個性的なバンドが集結されていたという印象が強い。
デビュー当時のBOØWYも彼らと同じようなスタンスを感じた。決して媚びることなく、体勢に屈せず我が道を行くストリートのヒーローといったところだろうか。
極めてラジカルなパンクバンドだったデビュー時期のBOØWY
そんなレーベルイメージと同じように、ファーストアルバム『MORAL』は、シニカルな歌詞も相俟って非常にパンキッシュな印象が強い。サウンド的にも決して先駆的とは言えず、ポップで疾走感を感じる分かりやすさがあったが、大きなパイを目論んでのレコードリリースとは言い難い。
確かに6人編成でサックスがフィーチャーされたそのサウンドは英ニューウェイヴシーンの影響を垣間見ることができたが、洒脱と言うよりかは、怒りやフラストレーションをレコードの溝に叩き込んだパンク的なアティチュードを強く感じた。
しかし、にもかかわらず、レコードに記されたキャッチコピーには「エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド」などと記され、自分たちの進むべき道が周囲のスタッフとも上手く共有できていなかったことがうかがえる。
話を戻そう。つまり、デビュー時期のBOØWYは極めてラジカルなパンクバンドだったと断言しても良いだろう。その証拠に当時のライブのセットリストには、いつもセックス・ピストルズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」があった。この曲をやる前のMCで氷室京介が「イギリスの民謡をやるぜ!」とシャウトするのも当時のシニカルさを物語っていた。
氷室京介と布袋寅泰の出会いから始まったBOØWYの試行錯誤
BOØWY結成前の氷室京介といえば、90年代に一世を風靡する音楽事務所ビーイングに所属。松井常松と共に在籍していたデスペナルティで1979年にはヤマハが主催していたアマチュアバンドコンテスト『East West ’79』本選大会で入賞したのがビーイング所属のきっかけだった。デスペナルティ解散後は事務所の方針により寺西修&VOICEとしてのデビューする予定があったという。
そしてスピニッヂ・パワーにボーカルとして加入。その経緯の傍らいくつかのドラマ出演や、アイドル歌手だった三原じゅん子(当時:順子)のファーストアルバム『セクシー・ナイト』にコーラスとして参加するなど極めて強い芸能志向があった。
そんな氷室と、デヴィッド・ボウイやマーク・ボランを崇拝し、時代の先を行く音楽の研究に余念がないレコードコレクター、布袋寅泰の出逢いが成し得たファーストアルバムは、彼らにとっても決して満足のいくものではなかったはずだ。つまり、ここからBOØWYが栄光を掴むまでの試行錯誤が本格的にスタートしている。
6人編成から4人編成へ、セカンドアルバム「INSTANT LOVE」の試み
6人編成だったBOØWYは、レコードデビュー翌年の1982年にサックス深沢和明とギター諸星アツシが脱退。4人編成となり、1983年にはプライベートオフィスØ-con'nectionを設立する。高橋マコトという強力なドラマーを得ることにより強力なビートを味方につけた自らのサウンドをAFROCKABILLY(アフロカビリー)と称していたのもこの頃だ。
4ピースというシンプルなバンド編成になり、今まで以上にメンバーそれぞれの個性を全面に打ちだてなくてはならない。ベース松井常松の直立不動のダウン・ピッキングや布袋のソリッドなテレキャスターが奏でているとは思えない重厚かつ変幻自在な音作り、そして70年代の歌謡シーンをも内包した氷室の極めてドメスティックな歌唱法という唯一無二のスタイルを確立したのもこの時期だったかもしれない。
4人編成となり、レコード会社も移籍して、1983年9月25日に徳間ジャパンよりリリースされたセカンドアルバム『INSTANT LOVE』は、4人編成としてのBOØWYの新たな試みであったことは言うまでもない。
歌詞も極めて叙情的なラブソングが中心となり、布袋の革新的なギターサウンドを全面に打ち出した方向性が伺えたが、正直なところ、この時期に彼らが度重なるライブで培ってきたダイレクトなサウンドをレコーディングで反映できていたかと言えば答えは否である。くぐもった感じの録音状態が、彼らのライブバンドの素晴らしさを伝えるにはいまひとつの物足りなさを感じずにいられなかった。
しかし、この『INSTANT LOVE』に収録された楽曲たちが、その後のブレイクに繋がる布陣であり、この時期に拠点を新宿ロフトから渋谷ライブ・インへと着実に動員を伸ばしていくことになる。同時期に布袋は、AUTO-MOD、PETSという極めて個性的で時代の最前衛をいくバンドのサポートギタリストとしても活躍。本拠地以外の活動で吸収した音楽的センスもBOØWYの楽曲に内包させギタリストとしてのオリジナリティを確立させていく。
サードアルバム「BOØWY」完成、始まったBOØWYの快進撃
アルバム『INSTANT LOVE』に収録された楽曲たちは、ライブを重ねるごとにダイナミックに蘇生されていく。1984年に渋谷ライブ・インで行われていたマンスリー企画「BEAT EMOTION」では、ここに収録された「FUNNY BOY」や「TEENAGE EMOTION」がステージとフロアが一体化するアンセムとなり、月を追うごとに増えていく観客を熱狂させていた。
1984年はBOØWYにとって、その後のブレイクを示唆する激動の年であった。マンスリー企画「BEAT EMOTION」と同時期にユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約、彼らにとって3つ目のレコード会社となる東芝EMIに移籍。翌年には、佐久間正英プロデュース、ベルリン、ハンザ・スタジオでのレコーディング敢行という彼らの現時点での音楽性をマキシマムに放出できる体制でサードアルバム『BOØWY』は完成した。
サードアルバム『BOØWY』には、氷室がデスペナルティ時代に残し、寺西修&VOICEのデビュー曲候補であった楽曲「CHU-RU-LU」(※当時のタイトルは「CHU-LU-LU」)が収録されるなど、これまでの軌跡も垣間見せながら、ライブバンドとして培ってきたキャリアが開花した傑作となったことは言うまでもない。
アルバムがリリースされた1985年6月21の四日後、BOØWYにとって初のホールクラスとなる渋谷公会堂でのライブを開催。新宿ロフトでのデビューライブから約4年。やっと彼らの快進撃がスタートしたのだ。
※編集部より:氷室京介のコーラス参加に関して事実誤認がありましたので、お詫び申し上げるとともに、訂正いたしました(2021.10.9)。
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2021.10.09