80’s Idols Remind Me Of… vol.7
私の16才 / 小泉今日子
花の82年組の中でも、現在に至る第一線でのコンスタントな生き残り感という意味で総体的にみれば、小泉今日子の “サバイブっぷり” は断トツであるし、異論をはさむ余地はない。
近年は、歌手、女優、タレントとして、絶妙な良い立ち位置に鎮座し、老若男女が納得する高め系大御所芸能人的な雰囲気さえも漂わせている。
さて、それでは82年組のデビュー当初はどうだったのだろうか。結論から言えば、それはもう中森明菜の一人勝ち状態だった。それぞれ82年中にリリースされた1~3枚目のシングルの売り上げ実績(枚数はおよその数)を見てみると――
中森明菜:17万、39万、76万枚
小泉今日子:9万、12万、15万枚
堀ちえみ:9万、8万、10万枚
石川秀美:6万、8万、5万枚
早見優:6万、5万、4万枚
三田寛子:6万、6万、3万枚
北原佐和子:6万、4万、1万枚
原田知世:6万、2万、59万枚
中森明菜はデビュー曲「スローモーション」でいきなり10万越え、3枚目「セカンド・ラブ」で自己最大セールスを記録。82年中にキャリアのピークを迎えていて、一人勝ち状態は一目瞭然(原田知世のサードは83年の「時をかける少女」)。
対する小泉今日子はセカンド「素敵なラブリーボーイ」、サード「ひとり街角」で10万越え、2番手につけて大健闘だったものの明菜には遠く及ばずという状況だった。小泉、堀、石川、早見あたりの82年組主流派は、おおよそ83年以降にピークが訪れていたわけだ。
こうしてデータを眺めてみると、小泉今日子のデビュー曲「私の16才」(82年3月21日発売)に、送り手側が “どこまで本腰を入れていたのだろうか?” と思わざるを得ない。そもそも大事なデビュー曲が、森まどか「ねえ・ねえ・ねえ」(79年)のカバーであるし、トラック・アレンジ等ほぼオリジナルと同じ。これでは、やっつけ感を払しょくできないというものだ。やはりビクターは、一足先にデビューしていた松本伊代に力を注いでいたのか…。
70年代後半のディスコ旋風の中でも特に欧州と日本で根強い人気のあったシルバー・コンベンション、ボニーM、アラベスク、ドナ・サマー等、ミュンヘン・ディスコの要素(ストリングス、コーラス、哀愁のギター等)が全編にまぶされた「私の16才」。
ボニーM「怪僧ラスプーチン」(79年)を換骨奪胎したようなアレンジを、オン・タイムの森まどか期よりも、なじんできた3年後にあえて投下したという意図があったのなら、ビクターの英断は大したものだが――
いずれにしろ小泉今日子はこんな状況下でも、素敵な楽曲「私の16才」をデビュー作としてフレッシュに、健気に歌いきっている。「もう胸が パンクしちゃいそう」のパの破裂音、「もう涙 なんかこぼれそう」あたりのナチュラルなアイドル歌唱は、この曲のキモですね。
デビュー当初は中森明菜の後塵を拝した小泉今日子だったが、やがて持ち前のアイドル根性と楽曲の良さで、明菜と拮抗する存在になっていったのは言うまでもない。
2018.10.30
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