ヘヴィメタルをお茶の間に届けた四天王の一角、X JAPAN
これまでのコラムで、80~90年代に一般層にまでHM/HRを届けた日本人アーティストとして、アルフィー、聖飢魔Ⅱ、B’zを取り上げた。そして最も忘れてはならないのが、X JAPANだ。今回もリマインダーらしく80年代のブレイク前におけるXの軌跡を、そのサウンドの変遷を中心に振り返ってみたい。
X JAPANを称してまず語られるのが、ヴィジュアル系を確立したルーツとしての存在だろう。けれども、80年代から進化の過程をリアルタイムで見てきた身としては、ヴィジュアル系である以前に、80sのジャパメタムーブメントから登場した、純然たるメタルバンドという認識が今でも強い。
YOSHIKIやTOSHIと僕は世代的に近く、彼らと同じように70年代後半にKISSをきっかけにハードロックに目覚め、中高生でバンド活動も経験した。比較するのは何ともおこがましいが、それだけに、彼らがXの黎明期を過ごした80年代の空気感を理解できるし、ある種のシンパシーを感じるのだ。
始まりはごく普通の高校生のメタルバンド、ジャパメタをフォロー
X JAPAN誕生からの歴史は、映画『We Are X』をはじめ、様々なところで知ることができるだろう。けれども、彼らの独自性がどう育まれたのかは、当時の音源や映像に触れることで、よりリアルに捉えられるはずだ。
昨今ネット上には、YOSHIKI、TOSHIの学生時代の貴重なライヴ音源が散見される。それらは当時の彼らを知る上で、バイオを読むだけでは知り得ない貴重な記録だ。1983年頃に、地元千葉の高校で行ったとされるライヴは、ラウドネスの「In the Mirror」のカヴァーで始まる。彼らもまた、当時のジャパメタをフォローしていたのがわかる。先回のコラム
『80年代が育んだ B’z の独自性、ジャパメタ、浜田麻里、そしてTMネットワーク』で書いたが、稲葉浩志も同じ楽曲を高校時代にコピーしていたのは、偶然とはいえ興味深い。
この時点でXのオリジナル2曲が、すでに演奏されている。映画のタイトルになった「We Are X」は、のちにデモテープに収められる楽曲だ。まだ曲構成など未消化とはいえ、静と動を同居させた展開は、YOSHIKIが影響を受けた初期アイアン・メイデンを彷彿とさせる。のちにEPやアルバムに収録される「I'll Kill You」も、この時点でお披露目されている。
音源の最後は、アクセプトの「Burning」のカヴァーで、彼らが洋楽メタルにも精通していたのを窺わせるマニアックな選曲だ。演奏自体は、ごく普通の高校生バンドといった印象で、YOSHIKIのドラムもこの時点では、特段目立った印象ではない。むしろ、TOSHIのヴォーカルは、まだ声質が幼いものの、よく伸びるハイトーンや堂々としたMCには、天性の素質を覗かせているようだ。
隆盛するスラッシュ系、メタルシーンの聖地で進撃開始!
高校卒業で上京後、X初の正式音源が、1985年6月発売の2曲入りEP「I'll Kill You」だ。メッセージ性の強いジャケットは、パンクのような印象を受ける。80sのメタルとパンクは対立軸で語られ、“メタル狩り” なんていう物騒な言葉を、当時実際に耳にしたものだ。
けれども、YOSHIKIは、G.B.H.のような海外のハードコアパンクにも影響を受け、日本のハードコアパンクバンド、リップ・クリームのメンバーらとL.O.Xを結成し、のちに活動している。その嗜好から、ハードコアパンク特有の速さや激しさが、Xの音楽性に投影されたと考えるのが自然だ。「I'll Kill You」自体も、ストレートにスピードで押しまくる、パンキッシュな色合いのメタルに仕上がっている。
この頃のジャパメタシーンは、アンセムやフラットバッカー等、男臭い硬派な新世代バンドが頭角を現し、メジャーデビューを果たした。一方でリアクションが、インディーズ発で1万枚超えのセールスを記録。さらには、のちにXがメジャーデビューするCBSソニーから、聖飢魔Ⅱがデビューしている。こうしたシーンの動きは、YOSHIKIの目に留まっていたであろう。
そんな中、Xは東京のメタルシーンの聖地、神楽坂エクスプロージョンや目黒鹿鳴館などでライヴ活動を展開しつつ、同年11月には、初回盤がブリキ缶の特殊ジャケットだったコンピ『Heavy Metal Force Ⅲ』に、EPで既発の「Break the Darkness」の別ヴァージョンを提供した。ここには、HIDEが在籍した横須賀サーベルタイガーほか、当時のインディーズシーンで隆盛を始めたスラッシュメタル系中心のバンド達が名を連ね、Xも必然的にそうした一群にカテゴライズされていった。
早過ぎたアイデア? 高速リズム×歌謡メロディ、新感覚のメタル曲「X」
海外では1986年3月にメタリカが『Master of Pappets』をリリースし、スラッシュメタルムーブメントが本格化した同年4月、XはYOSHIKI自ら設立したレーベル、エクスタシーレコードより3曲入EP「オルガスム」をリリース。ここでギターがツイン体制から、JUNこと高井寿のみに代わった。ラジオのギター教則番組『パープルエクスプレス』のリスナーなら、師範代として出演し、卓越したテクニックを披露していた高井をご存知だろう。
のちに『BLUE BLOOD』に収録される激速メタル「オルガスム」の原型も聴けるが、注目はバンドのテーマ曲「X」が、ここで初お披露目されたことだ。スピードメタル調のバッキングに、まるで歌謡曲のような分かりやすいクサいメロディ(いわゆるクサメロ)を大胆に乗せた斬新たな試み。メタル専門誌からは “スピード歌謡曲のような” とネガティヴな意味で称され、早過ぎたアイデアは、まだ理解されなかった。
このクサメロの本家として、のちに日本で旋風を巻き起こすドイツのハロウィンは、同年8月に『ウォールズ・オブ・ジェリコ』をリリースしている。細かいアプローチやメロディの性質は異なるものの、スピードメタルに叙情的な臭いメロディを乗せた “メロディック・スピード・メタル(メロスピ)” の原型を、ハロウィンとXは、奇しくも同時期に創り出していた。
録音状態など未だアンダーグラウンド感が強いものの、演奏面は格段にレベルアップしている。特にYOSHIKIは、タイトな高速2バスを短期間でこなせるようになっており、彼が “努力の天才” であるのを証明するかのようだ。また、ヴィジュアル面では、44マグナムの亜流的な金髪、レザースタッズに身を固めつつも、YOSHIKIはトサカのように金髪を逆立たせたヘアスタイルと白塗りとアイメイクを施しており、のちのヴィジュアルの原型が固まりつつあった。
バラエティ番組、ライヴ、硬柔を巧みに使い分けたプロモーション
1987年3月には、メジャー発のコンピ『Skull Thrash Zone Vol.1』に2曲参加。のちに『Jealousy』に収録されるスラッシュチューン「Stab Me In The Back」、ブラストビートを初めて用いた「No Connexion」を披露した。この頃まではメンバーが流動的で、ここでJUNに代わりPATAをゲストに迎え、その後正式加入した。TAIJIも再度加入、さらにレコーディング後にHIDEが加わり、ついにラインナップが固まった。
こうした音源制作やライヴと、通常のインディーズバンドの活動だけで、終わらなかったのがXだ。1986年から87年かけて、人気TV番組『天才たけしの元気が出るテレビ』のヘビメタコーナーに、Xが出演していたのは、よく知られた話だ。ビートたけしのファンだった僕は、毎週欠かさず見ていたので、同年7月に放送された、やしろ食堂の狭い店内に機材を持ち込み「オルガスム」を演奏する回は、鮮明に覚えている。Xのことは音楽誌ですでに知っていたので、あまりのバカバカしさに爆笑したものだ。この頃には、すでにTOSHIやメンバーのヘアスタイルも、懐かしのダイエースプレーで固めた直立のヘアスタイルになっている。ちなみにXは『上海紅鯨団が行く』の出演歴もある。
こうしたメタルを “ヘビメタ” として揶揄するバラエティ番組に出演することに、メタルシーン界隈から批判的な声が噴出してしまう。けれども、有名になるため笑い者になるのも厭わない一方で、着実にライヴを敢行し続ける、硬柔を巧みに使い分けた活動で、知名度を次第に広げていった。
12月にはCBSソニーのオーディションに出場した。この模様はネット上で散見されるが、アウェーの空気の中、媚を売る姿勢のかけらもない、まさに殺気立ったパフォーマンスで客席を煽りまくる様子は、ブレイク前夜のXに内包する、破竹の勢いを表すかのようだ。
ファーストアルバム「Vanising Vision」レコード店にもプロモーション
XはTV出演で得た知名度も武器に、音楽誌やインディーズ系レコードショップへの強力なプロモーションを行い、満を持して1988年4月、奇しくもジャパメタブーム衰退の一因になったBOØWYが解散ライヴをする月に、初のアルバム『Vanising Vision』をリリースするや、初動で1万枚を完売。メタル専門誌での変わらぬ低評価にも関わらず、インディーズの枠を遥かに凌駕する支持を集めた。
アルバムには、不朽の名曲「紅」が収められた。YOSHIKIのさらに精度を高めたドラミングとTOSHIが歌う日本人ならではの叙情的なメロディ。さらに、HIDEとPATAによるツインリードをふんだんに取り入れ、極上のメロディックスピードメタルとして完成した。
1987年4月にハロウィンがメロスピの教科書的な『守護神伝 -第一章-(Keeper Of The Seven Keys Part1)』をリリースした後に発表されたXは、曲によりハロウィンに酷似しているといわれた。実際にハロウィンからツインギターのアレンジなどで、影響を受けたのだろうが、前述したように、Xもまた同時期に、日本におけるメロスピを実践した先駆者だったのだ。
X 80年代の集大成「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー
他にも、YOSHIKIのクラシックの素養を生かすピアノを使ったバラード「Alive」、HIDEのカラーを生かした「Sadistic Desire」、TAIJIの卓越したスラップベースが光るインスト「Give Me the Pleasure」など、多彩な楽曲が収められ、X JAPANに繋がるサウンドのプロトタイプは、この時点で完成した事実に驚かされる。
そして1989年4月、自らの80年代の集大成『BLUE BLOOD』でメジャーデビューを果たし、80万枚を超えるジャパメタ史上最高のセールスを記録したのは、周知の通りだ。あの高校のステージで演奏してから、わずか6年ほどの歳月での快挙だった。
80sのジャパメタムーブメントは、1981年のラウドネスのデビューに始まり、1989年のXのメジャーデビューによる大ブレイクで結実した、といって差し支えないだろう。
既成概念を打ち壊した唯一無二のビッグスケールバンド
80sのジャパメタシーンを起点にしたXは、その進化の過程において、あらゆる場面で「既成概念」を打ち壊し続けた。その結果として、Xだけが成し得る、独自性の高いサウンドやヴィジュアルを創り上げ、ついには社会現象をも巻き起こしていった。Xは一介のジャパメタバンドで終わるような器ではなかったのだ。
80年代に創り上げた結晶は、90年代にかけて新たな音楽様式のヴィジュアル系として結実していった。ヴィジュアル系は、ある意味ジャパメタに取って代わる存在になったともいえるが、80sのジャパメタシーンが育んだXによって、その引導を渡されたのは、少々皮肉にも映る。
つい先日も紺綬褒章授与のニュースが届くなど、今やYOSHIKIは、80年代からXを知る者が想像し得ない頂きに逹している。現代のカリスマとしてのYOSHIKIに畏敬の念を抱くのは勿論だが、時代の壁に風穴を開け、Xを唯一無二のビッグスケールのバンドに育て上げた、80年代のYOSHIKIとXに対しても、同様の感情を覚えるのだ。
2021.03.22