1997年 12月1日

【佐橋佳幸の40曲】佐野元春「風の手のひらの上」ホーボーキング・バンドとの濃密な日々

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佐野元春のアルバム「THE BARN」(ザ・バーン)発売日(風の手のひらの上 収録)
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連載【佐橋佳幸の40曲】 vol.29
風の手のひらの上 / 佐野元春
作詞:佐野元春
作曲:佐野元春
編曲:佐野元春

佐野元春とさらなる偶然の再会


本連載でもすでに詳しく触れてきた通り、佐橋佳幸が佐野元春と出会ったのはサハシ少年がまだ中学生だったアマチュアバンド時代。続く久々の再会は1989年、佐野が主宰するレーベルからのコンピレーション・アルバム『mf VARIOUS ARTISTS Vol.1』に招かれて参加したとき。そしてその数年後、佐橋は仕事先のレコーディングスタジオで偶然、佐野とさらなる再会を果たした。

「同じスタジオの別の部屋で佐野さんがちょうど『ザ・サークル』(1993年)のレコーディング中だったの。それで挨拶に行ったら、“佐橋くん、ジョージィ・フェイムが弾いてくれた曲聴く?” “ええっ、ジョージィ・フェイム入ってるんすか!?” って話になって。聴かせてもらったのが「エンジェル」。佐野さんとは久しぶりだったのに全然久しぶりじゃない感じで音楽談義が始まっちゃって…」

このアルバム『ザ・サークル』リリース後、佐野元春は長年率いてきたバックバンド、ザ・ハートランドの解散を発表。そのニュースを佐橋も驚きをもって受け止めた。佐野さんはこれからどうするんだろう…? そんなことを思っていたある日、佐橋のもとにマネージャーから連絡が入る。

「佐野元春さんからレコーディングの依頼が来ていますって。“え? 僕に?” と、一瞬びっくりしたんだけど。ハートランド解散後のアルバム『フルーツ』に向けたレコーディングが始まった時期で、佐野さんはいろんな若い、新しいミュージシャンたちとのセッションを試していたんだよね。その中のひとりに僕も加えてもらったというわけです」

「楽しい時 -Fun Time-」のプロモーションビデオに出演


ハートランドを解散後、新たなライブツアーのことも見据えながら新作アルバムの制作にとりかかっていた佐野元春。当時、彼が求めていたのは、アルバムを完成させるために必要なセッションミュージシャンとしての確かな技量だけでなく、アルバム完成後のツアーでも “バンド” として魂を分かち合える仲間としての情熱だった。それゆえ、『フルーツ』のレコーディングセッションには当代随一のAクラスミュージシャンたちが勢揃い。その中には西本明(キーボード)、小田原豊(ドラム)ら80年代から佐橋がスタジオワークで苦楽を共にしてきた盟友たちの顔もあった。佐橋はアルバム『フルーツ』に先駆けて1996年1月にシングルリリースされた「楽しい時 -Fun Time-」のレコーディングに参加。この曲のプロモーションビデオにも出演した。

「ライヴ演奏している風に当て振りしている映像で。実際のレコーディングには参加していなかったメンバーもいるんだよね。でも、ここに集まったメンバーは、ほぼそのままインターナショナル・ホーボーキング・バンド(後にザ・ホーボーキング・バンドへと改名)になったの。僕はここでキョンさん(Dr.kyOn、キーボード、ギター)とも再会するんです。井上富雄(ベース)とはこの時が初対面だった。この時点ではもう、ほぼこのメンバーでツアーするぞっていうことが決まっていた記憶がある。ある意味、 “顔合わせ” みたいな撮影でもあったんだろうね」

百戦錬磨の佐橋も動揺したハプニングとは?




かくして、シングルがリリースされた96年1月から “インターナショナル・ホーボーキング・ツアー” がスタート。小田原、井上、佐橋、キョン、西本という顔ぶれによるインターナショナル・ホーボーキング・バンドに、スカパラ・ホーンズとコーラスのメロディー・セクストンが加わり、全国8カ所13公演、佐野元春をがっちりバックアップしてみせた。同年7月にアルバム『フルーツ』がリリースされた後は、ホーンとコーラス抜きの編成で年末まで3カ月におよぶ “フルーツ・ツアー” に突入した。新境地となる新作アルバムと新バンドのお披露目。佐野にとってザ・ハートランド解散後の分水嶺ともいえる重要なポイントに、佐橋は立ち会うことになったのだった。

それまでも、佐野のライヴはUGUISS時代から何度も観に行っていた佐橋だが、実際に同じステージに立ってみて初めて知ること、実感することがたくさんあった。ある日のステージでは、曲を演奏している最中に熱狂的ファンがステージに駆け上がってくるというハプニングがあった。スタッフの素早い機転により事なきを得たものの、ライブステージでは百戦錬磨の佐橋もこれには動揺した。

「あれは忘れられない。僕、今までいろんな人のライブをやってきたけど、そんな経験は一度もなかったからね。びっくりしちゃって。でもその時、佐野さんは微動だにしなかったの。めちゃめちゃかっこいいな、この人… と思った。何ごともなかったかのようにそのまま演奏を続けていた。初めて一緒にステージに立って、佐野さんのお客さんを引っ張っていく強さ、ものすごいエネルギーを日々実感していました。本番前でも “今日はあの時のアレンジでいこう” とか、“あの曲はこんな感じにしてみよう” とか、アイディアをどんどん出してきて」

「でも、ホーボーキングのメンバーはみんな上手いからね。ジャズ / フュージョン的な器用さではなく、ロックというジャンルにおいて器用な人たち。ロックにルーツがあって、しかもスタジオミュージシャンとして仕事をこなしていけるだけの力もある。僕たち、そういうミュージシャンの集まりだったんだよ。そういうミュージシャンって、実は当時、日本ではまだ珍しかったんです。自分で言うのも何だけど、佐野さん、よくそういうメンバーばかり集めたなと思う(笑)。面白いのは、ルースターズ(井上)、レベッカ(小田原)、ボ・ガンボス(キョン)、UGUISS(佐橋)、そしてザ・ハートランド(西本)…と、メンバー全員が “バンド・バツイチ” でもある(笑)。佐野さんもソロではあるけどライブではずっとザ・ハートランドと一緒だったから、バツイチっちゃあバツイチだよね。バンドの面白さも、バンドならではの難しさも、みんなわかってるの」



序盤から大きな手応えを感じさせた “フルーツ・ツアー”


毎日、ライヴ本番直前にセットリストを変えても、アレンジを変えても、むしろそれを楽しむかのように応じるバンドの面々。“フルーツ・ツアー” はすでに序盤から大きな手応えを感じさせた。本番前のひととき、佐野とバンドの共同楽屋はいつも互いのルーツやマニアックな洋楽情報などの音楽談義で賑わっていた。ツアーの合間にメンバーたちが各地の中古レコード屋に立ち寄って買ってきたアナログLPを見せあったり、ポータブルプレーヤーでかけたり…。楽屋のテーブルには佐橋が調達してきた小さなトラベルギターもセットされ、時にはレコードに合わせて佐野がギターをつまびくことも。スタッフは佐野とメンバーの部屋を “楽屋ロック喫茶” と呼んでいた。

「佐野さんも僕らも、最初はお互いの好きなものをかけあってる感じだったんだけど。そのうち傾向として、ジョン・サイモンとかジョン・セバスチャンとかアーティ・トラウムとか、自然とアメリカの東海岸、特にウッドストックやニューヨークの音が中心になっていったのね。もともと佐野さん、次のアルバムはソロでアメリカへ行って… という構想を抱いていたみたいなんだけど。あまりにもホーボーキング・バンドが面白いことになってきてね。日々どんどん進化していって、いったいどうなっちゃうんだろうって感じだったからさ。ならば、バンドでアメリカに行ってレコーディングしたらいいんじゃないか、みたいなことになったんだと思う。たぶんね。このバンドならできるんじゃないか、と」

意欲作「ザ・バーン」へと至る物語の始まり


これが米国ニューヨーク州ウッドストックでジョン・サイモンのプロデュースによって録音された意欲作『ザ・バーン』へと至る物語の始まりだった。が、もうひとつ、大きな鍵となった意外な楽曲がこの時期に生まれている。

「そう。それが「FREEDOM」なんだよ。ANDY'Sの」

日本テレビ系で放送されていた人気テレビ番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』で、石橋貴明、定岡正二、デビット伊東からなるバイクチーム、ANDY'Sが佐野元春に楽曲制作を依頼するというコーナーから生まれた企画シングル。番組では猛練習を積んだANDY'Sが演奏していたが、実際のレコーディングでのプレイはザ・ホーボーキング・バンドによるものだった。



「実はホーボーキング・バンドのメンバーが固まって最初に録音したのが「FREEDOM」だったの。だから実質的な意味で、あの曲は『ザ・バーン』の “エピソード・ゼロ” みたいな曲でもある。佐野さんだけでなく僕らも、この曲を作った段階でもう気持ちはウッドストックに向かっていたしね。あと、実はこの曲のイントロ、僕が佐野さんと一緒に考えたギターリフで始まるの。ツアーの途中、たしか大阪フェスティバルホールの楽屋だったと思うけど。この曲を考えていた佐野さんから突如 “佐橋くん、リフ、リフ” って言われたのを覚えてる(笑)。そこで “こんなんどうですか?” “いいね!” って、ふたりでイントロを作っていったの。とってもうれしかったな。だって、それってもう完全にバンドじゃん? ツアー中、ウッドストックに行くのが決まったあたりからはもう、“佐野元春が何かやる時に呼ばれるセッションバンド” という感じでは全然なくなっていったんです」

名プロデューサー、ジョン・サイモンを迎えレコーディングを敢行


そして97年夏。佐野元春はザ・ホーボーキング・バンドと共にニューヨーク州ウッドストックへと向かった。サイモン&ガーファンクル、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドなどとの仕事で知られる名プロデューサー、ジョン・サイモンを迎え、名門ベアズヴィル・サウンド・スタジオで約1か月におよぶレコーディングを敢行。ジョン・セバスチャンやガース・ハドソンといったウッドストックにゆかりのレジェンドたちの客演も交えつつ、意欲的なアルバム『ザ・バーン』を完成させた。

「ジョン・セバスチャンが1960年代、ラヴィン・スプーンフル時代に歌っていた「デイドリーム」のギターで、どうしてもわからないところがあって。録音の合間に “ここ、どうやって弾いてるんですか?” と質問したら、わざわざ自分の車まで楽器を取りに行ってくれたの。だから僕もギター持って慌てて追いかけて行って。ジョンがバンジョーを弾いて僕がギター弾いて…。教わって弾いているうちに他のメンバーやスタッフも集まってきて、スタジオの駐車場でみんなでジョンを囲んで大合唱。なんだか、本当にデイドリームな世界だったな(笑)」

「あと、当時の僕はまだペダルスチールを始めたばかりだったんで、誰か来てもらおうってことになって。そしたら、なんとエリック・ワイズバーグさんが来てくれた。それでエリックさんにちょこっとペダルスチールを教わったりして。すごい贅沢なレッスンだよねぇ(笑)。レコーディングには参加してないんだけどザ・バンドのリヴォン・ヘルムやリック・ダンコも遊びに来たし。キョンさんはガース・ハドソンさんからポルカの譜面をもらって、お礼に沖縄音階を教えてあげていたよ。そうだ、僕のソロアルバム『トラスト・ミー』に参加してくれたジョン・ホールさんもウッドストック在住で。この時、再会できたの」

日本の音楽シーンに少なからず衝撃を与えた「ザ・バーン」


そんなふうにして完成したアルバム『ザ・バーン』は、佐野元春&ザ・ホーボーキング・バンドという名義でリリースされた。新たな世界観を見せた佐野のソングライティングや、やがて21世紀に向けて大きなうねりとなってゆくアメリカン・ルーツロックの流れを予感させるサウンドプロダクションは、日本の音楽シーンに少なからず衝撃を与えた。が、一方、ソロ名義ではないことや、今までにないアーシーな音作りなど、戸惑いを覚えるファンも少なくはなかった。当時は良くも悪くも問題作と評された『ザ・バーン』。が、今ではこのアルバムがあったからこそ、その後の佐野元春の活動が良い形に拓かれていったのだと高く評価されるようになった。

「本当にいろんなアイディアがすみずみまで詰まっていて、過去の素晴らしい音楽へのリスペクトが入っていて。すごいアルバムだと思う。あんなアルバム、佐野さんに… いや、あの時の佐野さんと僕らにしかできなかったアルバムだって今でも思う。もちろん、もともとの始まりは、こういう曲を書いた、そういうインプットを自分の中から出すことができた佐野さんの力なわけで、いくら演奏がうまくても演奏だけじゃどうにもならないけどね。僕らバンドもいい仕事ができたと思います。面白かったよね」

特に印象的だった「風の手のひらの上」




ウッドストックでの経験は、メンバー各々が本1冊ずつ書けるくらい濃密なものだった。ザ・ハートランドを解散して新たなバンドと共に再び歩き出した佐野にとっても、自称 “バンド・バツイチ” 揃い、自らのすべてを音楽に捧げてきたメンバーたちにとっても、ある意味、音楽の神様がそれぞれの才能や頑張りを祝福するご褒美のような時間でもあった。そんなウッドストックセッションから何か特に印象的な1曲をあげるとすると…?

「考え出すときりがないんだけど…。んー、1曲あげるとすると「風の手のひらの上」かな。いちばん佐橋っぽい曲だねって昔からみんなに言われてる曲でね。自分のアルバムより弾きまくってるじゃんって(笑)。そうなんだよね。でも、このアルバム全体がわりとそういう感じかもしれないな。「FREEDOM」で佐野さんと一緒にリフを作った時から、なんか、この時期の佐野さんとの仕事はずっとそんな感じで」

「やっぱり、この『ザ・バーン』というアルバムは、僕の音楽人生の中でもとても大きな経験というか。仕事としても充実していたし、自分を表現するということもできた。自分の名前でちゃんと自分のカラーを出して表現していけばいいんだっていうことを見つけることができたのは94年のソロアルバムでのことだったんだけど。同じことをソロ以外のセッションの仕事でもできるようになってきて。それがちゃんと投影された作品だなと思うんで、今でも非常に思い出深い作品です」

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2024.06.29
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カタリベ
1964年生まれ
能地祐子
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