メロディが9割 Vol.2
HERO(ヒーローになる時、それは今) / 甲斐バンド異色の豪華コンサート「ドリームライブ in 福岡ドーム」
福岡の会社員時代、時々、オフィスに訪ねてこられる初老の紳士がいた。年の頃なら60前後だろうか。痩身で、いつも上品なスーツを着ていた。
「近くまで来たものですから」
そう言って、紳士は僕の上司とお茶を飲みながら雑談をした。僕も時々、同席させてもらった。大抵、仕事の話じゃなかった。紳士は福岡の音楽出版会社の専務で、よく有望な若手アーティストの話をしてくれた。対して、広告制作会社の僕の上司は先週オープンしたばかりの隠れ家レストランのカードを切った。ギブ・アンド・テイク。それが大人の雑談の作法だった。
そんなある日、紳士が定年退職の報告に訪れた。
「気がつけば、もうこんな年で」
「まだまだ、ご活躍してもらわないと」
「少し、自分の時間を持とうと思いましてね」
帰り際、紳士は「これ、よかったら」と、数枚のチケットを僕の上司に手渡した。
「えっ! こ、これは……」
「皆さんで、どうぞ」
「ぜひ、行かせていただきます!」
―― 恐縮して、深々と90度のお辞儀をする上司。
数日後、僕もチケットのご相伴に預かった。その日、僕らが訪れたのは完成したばかりの福岡ドーム。そのイベントが杮落し公演だった。公演名は『ドリームライブ in 福岡ドーム』。井上陽水、財津和夫、武田鉄矢、甲斐よしひろの福岡出身の4人のミュージシャン―― “ビッグ4”を中心に、同じく福岡出身のチャゲ&飛鳥(当時)や藤井フミヤ、タモリらも応援にかけつけるという異色の豪華コンサートだった。
日本のリヴァプール=福岡で数多くのミュージシャンを育てた伝説の人物
ステージの終盤、そのイベントが企画されたキッカケがビッグ4から明かされた。なんでも、彼らが無名時代からお世話になり、育ててくれた恩人が引退するので、その恩返しに何かできないか―― というところから始まったと。恩人はかつて福岡の民放局のラジオディレクターとして鳴らし、数多くのミュージシャンを育て上げた伝説の人物らしい。
「へぇ、そんな人がいるんだ」
僕は他人事のように話を聞いていた。しかし、次の瞬間、井上陽水さんの口から語られた名前に、僕は椅子から転げ落ちそうになった。その人物こそ誰あろう、先の紳士だった。地元放送局のRKBでラジオディレクターとして活躍した後、その豊富な音楽業界の人脈を生かして音楽出版社RKBセレナを立ち上げ、その代表を務めていた野見山実、その人だった。
「の、野見山サンが……!」
恥ずかしながら、僕はその時まで野見山サンの過去を全く知らなかった。上司は教えてくれないし、野見山サン自身、過去の自慢話など一切しなかった。2人の大人は毎回、僕の前で最近の話ばかりして、他愛のないネタで盛り上がった。今なら、昔話を語らない大人の美学はよくわかるが、当時、20代の若者にとっては「早く言ってよ~」と地団太を踏むしかなかった。
よく、福岡は “日本のリヴァプール” と例えられる。それは、共に大都会(ロンドン、東京)の西に位置し、港町としての歴史を持ちながら、数多くの若きミュージシャンたちを育み、大都会へと送り出した街だからである。そして、その巣立ったミュージシャンの代表格が、先のビッグ4―― 井上陽水、チューリップ、海援隊、甲斐バンドだった。
少々前置きが長くなったが、今回はその中で “四男坊” と呼ばれる男の話である。そう、甲斐よしひろ――。今日、4月7日で68歳を迎える、稀代のメロディメーカーの話だ。
甲斐よしひろ、フォークグループから始まった音楽活動
甲斐サンはリアルでも四男坊で、有名な話だが、幼馴染みに漫画家の小林よしのりサンがいる。2人は小・中・高と同じ道を歩み、高校で小林サンは漫画に、甲斐サンは音楽に傾倒した。
甲斐サンの本格的な音楽活動は、高校2年の時に組んだフォークグループに始まる。この時、地元放送局のKBCラジオのイベントに出場したり、福岡の伝説的ライブ喫茶「照和」のステージに立ったりして爪あとを残す。
しかし、高校3年の受験期を迎えると、グループは自然解消。卒業後、甲斐サンは旅行会社に一旦就職するも、音楽の道が諦めきれず、4ヶ月で退職。そして前述の「照和」でウエイターをしながら、ステージ出場の機会を得る。時に1972年―― 季節は夏になっていた。
翌1973年には初のワンマンライブを福岡市で行い、アマチュアながら900人を動員。その勢いに乗って、さらに翌1974年3月には文化放送主宰の『全日本アマチュア・フォーク・コンテスト(ハッピー・フォークコンテスト)』に出場し、「ポップコーンをほおばって」で優勝。同年5月、甲斐バンドを結成する。当初、バンド名は仮名だったが、気がつけば正式名称に。8月には福岡のコンサートの聖地・電気ホールでマチュア時代最後の『甲斐バンド出発(たびだち)コンサート』を開催して2,000人を動員。満を持して、東京へと旅立つ。
遅すぎたデビュー、甲斐バンドに必要だった変化
1974年11月、甲斐バンドはシングル「バス通り」でデビューする。作詞・作曲甲斐よしひろ。ジャケットを見れば分かる通り、それは100%のフォークソングだった。いい曲だった。だが、正直なところ、彼らの登場は少々遅すぎた。フォークの季節は、既に第4コーナーに差し掛かっていたのである。変化が必要だった。そして―― あの名曲が誕生する。
雨にけむる 街並みを
息をきらして かけ続けた
つきささる 吐息をはいて
駅への道 かけ続けた
1975年6月、甲斐バンドは2枚目のシングル「裏切りの街角」をリリース。作詞・作曲は前作と同じく、甲斐よしひろ。だが、そのサウンドは一転、ロック調に進化していた。アコギはエレキに変わり、ドラムは前面に押し出された。オリコンは最高位7位を付け、75万枚のロングヒットとなった。
甲斐バンドは覚醒した。そして―― メロディメーカー甲斐よしひろが世間に認知されたのである。
覚醒した甲斐バンド、メロディを残したままロックに転換
1970年代、日本の音楽界は空前の “メロディの時代” を迎えていた。フォーク、歌謡曲、アイドルソング、ムード歌謡―― ヒットする楽曲はどれもメロディアスだった。ヤマハが主催するポプコンは純粋にメロディを評価し、アマチュアから次々とスターが生まれた。女子高生だった小坂明子は、「あなた」一曲でスターになった。一発屋は、裏を返せば、楽曲ひとつで新人がスターになれる証明だった。
断っておくが、甲斐バンドを語る時、フォーク調の「バス通り」でデビューしたことは、決して黒歴史ではない。フォークは言葉を武器としながら、広く共感を得るためには優れたメロディを必要とした。つまり、ヒットするフォークソングは例外なくメロディアスだった。
遅れてきた四男坊―― 甲斐よしひろ率いる甲斐バンドも、その洗礼を受けた。彼らのデビュー曲は間違いなくメロディアスだった。ただ、フォークが時代遅れになりつつあっただけである。そこで彼らは、メロディを残したままロックに転換する。そして生まれたのが「裏切りの街角」だった。
あれから3年―― 朗報が訪れる。甲斐バンドは、メロディの時代にありがちな “一発屋” の汚名を逃れる名曲を再び世に放つ。「HERO(ヒーローになる時、それは今)」である。
初のCMタイアップ、わずか30秒でお茶の間のハートを掴んだ「HERO」
HERO ヒーローになる時
Ah Haそれは今
HERO 引き裂かれた夜に
お前を離しはしない
作詞・作曲はもちろん、甲斐よしひろ。同曲は甲斐バンド初のCMタイアップ曲となった。それは、広告代理店によって巧妙に戦略が練られ、1979年1月1日午前0時と同時に、民放各局で一斉に服部時計店のCMが流れ、彼ら4人の雄姿と同曲がオンエアされたのである。
CMソングの命綱は、わずか30秒でお茶の間のハートを掴むキャッチーなメロディにある。甲斐サンは見事にそのオーダーに応え、同曲は年が明けると共にヒットチャートを駆け上がり、同年2月26日、オリコン1位に立った。そして翌月、あの歴史的なシーンを僕らは目撃する。
甲斐よしひろのロックな自己演出、生涯で唯一度のザ・ベストテン出演
それは、1979年3月15日―― TBSの『ザ・ベストテン』だった。同年2月15日にランクインして以来、出演不可を貫いてきた甲斐バンドが生涯で唯一度、同番組に出演した回である。久米サンと黒柳サンが第3位に入った「HERO」を紹介すると、カメラは中継先に切り替わり、NHKのスタジオに――。そこは、甲斐サンがDJを務めるNHK-FM『サウンドストリート』の公開録音の場。ファンが取り囲む中、一切、司会の2人と話をしないという条件で、甲斐サンが一人語りを始め、そして歌へ――。
今思えば、それは甲斐サンなりの “ロック” な自己演出だったのかもしれない。お茶の間から生意気と思われようとも、フォークのデビューから一転、2曲目以降、懸命に路線を変えようとした、彼の心の叫びだったのかもしれない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。フォークだろうが、ロックだろうが、泥臭かろうが、生意気と思われようが―― 甲斐バンドが評価されたのは、その類稀なるメロディラインにあること。
13枚目のシングル「安奈」がリリースされるのは、この半年後である。
2021.04.07