先のコラム
「天才・銀色夏生との出会い、彼女が書きためた100編の作品」に続き、1983年秋に発売された太田裕美の17th アルバム『I do, You do』にまつわるお話です。
歌詞は銀色夏生でということの他に、もうひとつ決めていたことがありました。アレンジを大村雅朗さんメインでいく。大村さんには前作『Far East』でB面の5曲をお願いして、そのセンスのよさは確認済み、今度は彼にもっと本領を発揮してもらって、「和風ニューウェイブ・ポップ・サウンドによる大人の童話的世界」なんてものを創りたいと思っていました(それまでの太田裕美の路線は完全無視です……)。
当時、大村さんはプログラマーの松武秀樹さんと組んで、“打込み”、すなわちコンピュータにしかできない正確なビートや繰り返しの均一性を活かして、ポップスのサウンドに新風を吹き込んでいました。
もちろんコンピュータの導入は、70年代末から “YMO” などが、それこそ松武さんも先頭に立って、推進してきましたが、ここにきて “サンプリング” という新たな概念が出現していました。
“サンプリング” とは、音源をデジタルファイル化して、トリガーひとつで再生できるようにする機能ですが、これはコンピュータ・ミュージックを大きくステップアップさせるものでした。
なぜなら、それまではコンピュータで演奏するといえばシンセサイザーやドラムマシーンに限られていたのが、“サンプリング” により、楽器音であろうが自然音であろうが機械音であろうが、ありとあらゆる音をコンピュータで演奏することができるようになったからです。
1980年の直前に「フェアライト CMI」と「シンクラヴィア」というサンプリング機能を持ったシンセサイザーが登場し、アフリカ・バンバータやトレヴァー・ホーンらが盛んにそれを使い始めたのがこの1983年です。ただし「フェアライト」が約1200万円、「シンクラヴィア」など数千万円という高嶺の花だったので、サンプリングが一気に普及するのは、1985年に AKAI が「S612」という “サンプラー” を約20万円で発売して以降となります。
まさに “サンプリング黎明期” の1983年でしたが、松武さんはなんとサンプラーを自作していました。「Apple-II」というアップル社の最初のヒット商品だったパソコンを改造していたので、それを「オレンジ」という名前で呼んでいました。
まだ機能がごく限られており、サンプリング・タイムは1秒もなかったんじゃないかな? つまり打楽器くらいしか取り込めず、ストレージもできなくて、Aの次にBをサンプリングしようと思ったらAは消さないといけない、という仕様でした。
おまけに当時のシンクロナイズ(テープとマシンを同期させること)用の信号が、曲の頭からプレイしないと「何小節目の何拍目で音を出す」という命令が実行できず、おしりの方にだけちょこっと録音したい場合であっても、頭からテープを回してずーっと待ってる、ということをしないといけなかったのでした(「SMPTE」という信号とそれを読み取る「Roland SBX-80」という器械ができて、曲の途中からでもシンクロできるようになるのは1984年以降)。
今から思えば面倒極まりないですが、その時はそれしかやりようがなかったし、新しいサウンドを創るんだという気持ちの前では、そんなこと “屁の河童”(死語(^^))なのでした。
極端だったのは「葉桜のハイウェイ」という曲でのこと。青山純をブッキングして生ドラムをきちんと録音し、それからその音を、スネア、ハイハット、キック、タム…… とひとつずつサンプリングして、それを彼が叩いた通りにプログラミングして、すべて録り直す、ということをやったのです。彼のプレイが悪かったわけでは全然ないですよ。青山純の音色とフレージングを、コンピュータのジャストなビートで演奏させたかっただけなんです。
これには私もさすがに驚きました。お金も時間も倍以上かかりますしね。ここまでする必要があるのか。でもこういう、効率の悪い、こだわりと追求の積み重ねが、面白い音楽を生み出す土壌をしっかり耕していた、とは思うのです。
※2017年12月29日に掲載された記事をアップデート
2019.06.29