BOØWY、ライブハウスからホールクラスへ
ライブハウス期のBOØWYの集大成とも言えるマンスリー企画「BEAT EMOTION」が渋谷ライブ・インでスタートしたのが1984年5月31日。新宿ロフトから拠点を移したライブ・インは、キャパもステージもロフトに比べて圧倒的に広く、ホールクラスへの移行期に切磋琢磨する場所としては絶好のロケーションだった。この「BEAT EMOTION」は全5回、同年の10月まで続いた。彼らがユイ音楽工房とマネージメント契約を結んだのが翌月の11月。ライブハウスクラスのバンドとは一線を画した演出と、布袋寅泰がイニシアチブを握るサウンドの迫力は、今後の躍進を示唆するには十分なものであった。
ユイ音楽工房とのマネージメント契約、レコード会社も三度目の正直とも言うべき東芝EMIへと移籍。順風満帆な道を歩むべく切符を手に入れたBOØWY。同時期に氷室は “狂介” から “京介” へと改名。すべては大きなパイを目論んだ戦略であったことは言うまでもない。ストリートのヒーローはこれまでライブハウスで培ったキャリアを数千、数万というリスナー届けるべく、今までかつて存在しなかった日本のロックバンドとしての方向性を示唆することになる。
サードアルバム「BOØWY」ハンザトン・スタジオでレコーディング開始
BOØWYの歴史において最も大きな転換期だった1985年を迎えると2月にはベルリンのハンザトン・スタジオでサードアルバム『BOØWY』のレコーディングが開始される。この時期で興味深いのが、3月にはロンドンの老舗ヴェニュー、マーキークラブに出演、4月には赤坂ラフォーレミュージアムでマスコミ向けコンベンションライブを開催、5月にはアルバム『JUST A HERO』に向けてのプリプロ(レコーディングに向けての事前準備)がスタートされているということだ。つまり、ユイ音楽工房を味方につけたBOØWYは、この時点で、いや、もっと前から、自分たちの未来予想図を描き切っていたのかもしれない。そして今の自分たちに何が必要かという部分を熟知していたんだと思う。ハードスケジュールとも言えるライブのブッキングで実力を蓄積し、より大きなパイを目論んだプランニングを徹底していく。メンバーにしてみても、周囲のスタッフにしてみてもBOØWYのブレイク必至に一寸の迷いもなかったということだろう。
マーキークラブは、ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイらが出演、60年代にはザ・フー、ヤードバーズ、クリーム…… スウィンギング・ロンドンの時代を彩っていった時代のアーティストたちが毎晩出演、ロックの歴史を語る上で最も重要な場所だ。このステージに立つことがメンバーにとって大きなモチベーションになったことは想像に難くない。BOØWYの未来予想図はこの場所でより強固なものになったはずだ。
伝説の渋谷公会堂「BOØWY GIGS」
1985年6月1日、彼らの遅すぎた初シングル「ホンキ―・トンキー・クレイジー」リリース、そして同月21日待望のサードアルバム『BOØWY』リリース。そして4日後の6月25日に渋谷公会堂でのワンマンライブ『BOØWY GIGS』は、彼らの周囲の景色が一瞬にして変わった瞬間だった。地道なライブアクトで着実に動員数を増やしてきた彼らの実力が一気に開花する。
ステージの幕開けは、後にシングル「わがままジュリエット」のB面に収録されるインストゥルメンタル「BEGINNING FROM ENDRESS」だった。幻想的な雰囲気に包まれた大ホールが、次に演奏される初期の代表曲「IMAGE DOWN」でフロアの熱気が一気にヒートアップする。
これまでクリームソーダやT-KIDSといったストリートブランドでステージに登っていたメンバーはハイブランドのファッションで身を包む。布袋のソリッドなボディのテレキャスターから出しているとは思えない圧倒的な音圧、ダンスブルな氷室京介のステージアクト、サードアルバム『BOØWY』からの楽曲を中心としたセットリストは、これまでの日本のロックシーンから考えると規格外のステージングだ。
初期に強烈な印象を残したパンクスピリット、グラマラスな演出、これまでの海外のロックの歴史を踏襲しながらも新しい時代を切り拓こうとするエナジーが三位一体となったステージは今も伝説となっている。
オリコンチャート最高5位「JUST A HERO」
この渋谷公会堂が日本のロックの歴史を俯瞰した上でもエポックメイキングな出来事であったことに疑う余地はないのだが、BOØWYの人気が全国区になるまでには、少しのタイムラグがあったようだ。サードアルバム『BOØWY』のリリース時期のオリコンチャート最高位は48位。しかし、その約9か月後、1986年3月1日にリリースされたアルバム『JUST A HERO』は最高位5位と大健闘する。
『JUST A HERO』は後に松井常松が述懐していたように氷室京介色が強いアルバムだったように思う。つまり、布袋のUKロックシーンを踏襲しながらも最先端の色彩を施した音楽性よりも極めてドメスティックな氷室のアーティスト色が全面に打ち出されていたように思う。その極めつけは、氷室がソングソングライティングを手掛けシングルとしてリリースされた「わがままジュリエット」だった。
泣き顔でスマイル
すりきれてシャイン
踊るならレイン
ピントはずれの
わがままジュリエット
そこに潜む意味よりも先駆的な言葉の選び方と日本人の琴線に触れるメロディ、そして幻想的でロマンティックなアレンジ。BOØWYという唯一無二のバンドでしか確立することの出来ない独自性にリスナーは引き込まれていった。それまでの彼らの持ち味だった強烈なビートは影を潜め、ロックバンドの枠では語ることの出来ない世界観を大衆に響かせることになる。
この「わがままジュリエット」のイメージと圧倒的なライブパフォーマンスが相俟ってその人気が全国区になっていく。アルバムリリース同月にスタートした「JUST A HERO TOUR」最終公演の日本武道館は1986年の7月2日。ライブハウスを拠点としユイ音楽工房と契約した彼らがエンタテインメントの頂点 “日本武道館” に立つまでにかかった期間はわずか1年と8か月だった。
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2021.10.16