みんなのブルーハーツ ~vol.14
■ THE BLUE HEARTS『チェルノブイリ』
作詞:真島昌利
作曲:真島昌利
編曲:THE BLUE HEARTS
発売:1987年8月2日
「チェルノブイリ」がインディーズでリリースされた理由とは?
―― チェルノブイリには行きたくねぇ
出自が複雑な曲である。
私が持っているのが、1988年7月1日発売の8cmCDシングル。『ブルーハーツのテーマ』『チェルノブイリ』『シャララ』の3曲入り。あまり深く考えず、お得だなと思って買ったのを憶えている。
同日に、アナログのドーナツ盤でもリリースされている。こちらはカップリング(B面)のない片面レコード。オリコンで55位を記録。
この2つの『チェルノブイリ』、レーベルは、当時契約していたメルダックではなくジャグラー。これは当時のブルーハーツが所属していた事務所が運営するレコード会社。つまりインディーズでのリリースだ。
もちろん、1986年4月にソビエト(当時)で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故のことを歌っている。そしてもちろん、この事実とインディーズでリリースしたことは、深く関わっている。
事務所ジャグラーの代表・村田積治氏は、『Jポップ批評20 ブルーハーツと日本のパンク』(宝島社)でこう語る。
――「『チェルノブイリ』は、たんに(当時の所属レコード会社)メルダックが三菱系の会社だったということで、いらぬ迷惑をかけてもいけないと思って、ジャグラー・レコードから発売したわけです。メルダックからダメ出しをされたというわけではなくて、最初からインディーで出そうと思っていましたから」
メルダックは三菱電機の子会社で、三菱電機、三菱グループには原子力発電事業がある。なので「いらぬ迷惑」をかけたくないのでインディーズから発売したというのだ。実に賢明な判断ではなかったか。
というのは、もちろん、その後の88年に起きた、RCサクセション『COVERS』の「不売事件」を知っているからだ。同年の8月6日、つまり広島原爆の日に発売予定だったのが、原発をテーマにした曲があるということで、東芝EMIが発売中止を決定。そして、6月22日に「素晴しすぎて発売出来ません」という新聞広告が掲載された。
もちろんその背景には、原発が、親会社・東芝の基幹事業だった事実がある。そして8月15日、今度は終戦記念日に、キティからあらためてリリースされることになるのだが。
ブルーハーツ、初の武道館公演で演奏された「チェルノブイリ」
1988年2月12日、ブルーハーツ初の日本武道館公演で、彼らはこの曲を演奏。その前のMCで、甲本ヒロトは数分間、原発についての話をした。結論として「少しでも自分で調べてみようという人が現れたらいい」と話したらしい。このあたりは『ドブネズミの詩』(角川文庫)にあるこのフレーズと呼応する。
―― なんにも知らない人が「チェルノブイリ」を聴いて、自分でいろいろ本を読んだり考えたりしてくれれば、それでいいんじゃないかと思うよ。
さて、「チェルノブイリ」は一種の死語となった。現在、メディアで使われるのは「チョルノービリ」。国名も変わった。ソビエトではなく、ウクライナである。つまり「チェルノブイリ」はロシア語で「チョルノービリ」はウクライナ語。
一般社団法人環境金融研究機構というところのサイトから引用。今チョルノービリで起きていること。
―― ロシアのウクライナ侵攻で一時、ロシア軍に占拠されたチョルノービリ(チェルノブイリ)原発の放射能汚染状況が、占拠前に比べて約3倍に高まっていることがわかった。環境NGOのグリーンピースが現地調査を行った結果で、同団体の調査では、国際原子力機関(IAEA)が占拠解除後に発表したデータを大きく上回っている。IAEAの調査自体への信頼性が揺らぐ状況でもある。
―― ロシア軍は原発から撤退する際、主要な放射線検知機器と消防機器を略奪して破壊した。ロシア軍が同原発の高濃度汚染地域に塹壕や要塞を構築し、意図的に何度も火をつけ、ロケット砲を発射していたことが確認された。こうした軍事行動によって、土壌に蓄積された放射性物質を大気と川を通って周辺に拡散させた。
「チェルノブイリには行きたくねぇ」―― この言葉がまた、今度は海の向こうから聴こえてきそうだ。
曲の背景にあった反核 / 反原発のムーブメント
―― あの娘を抱きしめていたい
あの娘とKissをしたいだけ
この曲の背景として、1980年代に、ロックシーンと関係の近いところにあった反核 / 反原発のムーブメントについて触れておきたい。
大久保青志『フェスとデモを進化させる 「音楽に政治を持ち込むな」ってなんだ!?』(イースト・プレス)という本がある。大久保氏は「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル」を立ち上げた人。以下、この本をベースに事実をたどっていく。
「アトミック・カフェ~」とは、1982年の反核映画『アトミック・カフェ』をきっかけとして生まれた、反核の音楽イベントシリーズで、その第1回は1984年8月4日に日比谷野外音楽堂で行われた。ゲストは、浜田省吾、尾崎豊、タケカワユキヒデ、ARB(飛び入り)など。
ここでピンと来る人は、なかなかのロックファンか、もしくは尾崎豊ファンだろう。そう、尾崎豊が舞台の上で飛び降りて、左脚を複雑骨折したという、あのイベントだ。
そして、チェルノブイリ原発事故後の86年12月、渋谷東映にて行われた「アトミック・カフェ・フェスティバル・'86ラスト・ギグ」にブルーハーツが出演。盛り上がりに盛り上がり、興奮した観客によって観客席が破壊されたらしい。
そんな大久保氏の思想は、極めてシンプルである。
―― 僕がアトミック・カフェをはじめたもうひとつの動機は、それまでにアースデイとかの反核運動を手伝った経験から、そういうのは、いわゆる「プロ市民」的なグループだけでやっているという実態がわかってきたこともある。(中略)それよりも音楽的・文化的な表現としてのアトミック・カフェで、もっと裾野を広げられるんじゃないかと思ったんだ。
だから「ブルーハーツが先頭でアコースティック・ギターをかき鳴らして生音だけで歌うような、独自のデモを企画したりもした」こともあるらしい(同書には、デモの先頭で笑っている真島昌利の写真が掲載されている)。
さて、「プロ市民」に偏らない、音楽を絡めたこのような志向の運動があったことと、『チェルノブイリ』の歌詞は呼応するだろう。「チェルノブイリには行きたくねぇ」、その理由として「右が / 左が、保守が / 革新が」云々ではなく、「あの娘を抱きしめていたい」「あの娘とKissをしたい」からという――。
この、フラットな開き直りこそが今後、再度運動を広げるときのポイントになるのではないかと、勝手ながら思ったりもするのだが。
東日本大震災、福島第一原発事故の発生、令和のブルーハーツはどこに?
―― まあるい地球は誰のもの
そもそも大久保氏とブルーハーツの出会いは、大久保氏がロッキング・オンにいたときに、甲本ヒロトと真島昌利がデモテープを持ってきたことに始まる。
そして、大久保氏がライヴを観に行って大いに気に入り、関係がスタートしたという。だから、先に述べたような良好かつ濃厚な関係に至ったのだろう。
そして東日本大震災、福島第一原発事故の発生。大久保氏は同書でこう語る。
―― 当然、2011年にフジロックでアトミック・カフェが再開した時には、ヒロトにも声をかけたけれど、「もう俺たちがそういうのをやる必要はない。ブルーハーツの頃は他にあまりいなかったからやったけど、今はいろんなミュージシャンが発言するようになったし、いいでしょう」っていう反応だった。
ここで私は、すでに還暦を超えた甲本ヒロトと真島昌利のことをおもんぱかりながら、むしろ、「今はいろんなミュージシャンが発言するようになっ」ていない現状に違和感を抱いて、また同じことを思う――「令和のブルーハーツ」はどこに?
『チェルノブイリ』に話を戻すと、この歌詞のすごみは、裾野が広いことだ。先の「あの娘を抱きしめていたい」「あの娘とKissをしたい」から「チェルノブイリには行きたくねぇ」もそうだし、まるでアニメ、いや昭和の「テレビまんが」の主題歌のような「まあるい地球は誰のもの」というフレーズも、裾野が広い。間口も広い。
言い換えれば、絶対善の提示。つまりはイデオロギーから自由ということだ。「右が / 左が、保守が / 革新が」といった段階で、多くの運動は矮小化する。しかし「あの娘を抱きしめていたい」に誰も文句などないだろう。「まあるい地球は "俺" のもの」というジャイアンもいないだろう。
そういえば1980年代、約40年前、なかなかに盛り上がっていた反核運動がやり玉に挙げていたのが巡航ミサイル「トマホーク」だ。
―― 岸田文雄首相は27日、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」について日本が400発の購入を計画していると明かした。政府は2023年度に契約を締結し26、27両年度に海上自衛隊のイージス艦へ配備を目指す。相手のミサイル発射拠点などをたたく「反撃能力」の行使手段にする(日本経済新聞 / 2023年2月27日)
対して最後に、上に挙げたブルーハーツの言葉をもう一度。
―― なんにも知らない人が「チェルノブイリ」を聴いて、自分でいろいろ本を読んだり考えたりしてくれれば、それでいいんじゃないかと思うよ。
■編集部より 「チェルノブイリ」CDシングルとアナログの発売日の誤記について、読者の方からご指摘いただきましたので訂正いたしました。
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2023.04.24