『第2回 数多くの出会い、尊敬する先輩はアン・ルイスとテレサ・テン』からのつづき
1982年4月21日に「急いで!初恋」でデビューした早見優のキャッチコピーは「少しだけオトナなんだ」。ハワイ育ち、英語が堪能という才色兼備なキャラクターで、"花の82年組"と呼ばれた同期の新人アイドルの中で注目を集め、5枚目のシングル「夏色のナンシー」のヒットで人気を確実なものとした。
その後は女優、タレントとしても幅広く活躍し、二人の娘の母親となった今も変わらぬ魅力で精力的に活動を続けている。デビュー40周年を迎えた今年は期間限定のYouTubeチャンネルも開設。4月20日にはアニバーサリーアイテムの第1弾として、初CD&DVD化となる『早見優 LIVE 1984~1985』がリリースされた。
新曲も含めてさらに様々な企画を準備中だという今、40周年を迎えての心境やこれまでの活動についてたっぷりとお話を伺った。最終回となる第3回は、今回リリースされた40周年記念盤の話から、ライヴの記憶、さらに母親としての自分、そして今後の展望について語っていただいた。
デビュー40周年記念企画・第1弾! 復刻された早見優のライヴ
― 今回、40周年記念企画の第1弾として、1984年と85年のライヴ音源と映像として復刻される『LIVE 1984~1985』ですが、今改めてご覧になっていかがですか?
早見:すごく元気よくステージを走り回ったりして、若かったんだなと思いますけど。このライヴで憶えてるのは、始まる前に演出家の方と細かい打ち合わせをしながら、こういうコンセプトで… とか、衣装もたくさん用意していただいて。あの頃は曲に合わせて一着一着作ってたんですよね。フィッティングが必要だったので、夜11時とか12時に仕事が終わってからデザイナーさんのところへ行って。衣装を作るのって大変なんだなと思いましたね。それも含めて自分にとってもすごく貴重なライヴ映像を新たな形でリリースして貰えるのは嬉しいですね。いろんなことが甦ってきます。
― ライヴに臨む際の特別な心構えみたいなものはありましたか?
早見:心配ごとよりも、みんなと盛り上がろうという楽しい気持ちの方が強いので、あまり身構えることはなかったかもしれません。ツアーで何ヵ所も廻る時には、最後まで声が出るかな、途中で声を潰さないようにしなくちゃという思いはありましたけれども。昔よく喜怒哀楽がないっと言われていたくらいで、表情にはあまり出てないのかもしれませんが、自分自身ではすごく楽しんでいるんですよ。もう少し笑顔でもよかったんじゃないかとか、もう少し熱く歌っていればと、今になって思うんですけど。
― デビューされてからまだ3年目とか4年目で、そこまでライヴを楽しみながら演れたというのはすごいことだと思います。
早見:コンサートという空間の中では、ファンの方々に包まれる感じがあって、ここでやっとひとつになれるんだなと思うんです。普段自分だけでは円の半分しかないのが、ファンのみなさんに来てもらうことでひとつの円になるんだなっていう感覚があったんですね。温かくて気持ちがいいお風呂に入るような感覚があって。会場の声援を聞きながら、「またみんなと一緒のあの楽しい時間が始まるんだ」という気持ちになれたんだと思います。むしろ今の方が緊張しますね。「あ、歌詞間違えたかな…」とか、「ファンの方には絶対バレてる…」とか思いながら。昔はあまり気にしないで出来ましたね。
― 歌番組などでも、ご自分の当時の映像をご覧になって感じるところはありますか?
早見:「夏色のナンシー」の映像とかはよく見かけるんですけど、本当に忙しかったみたいで、あまり記憶がないんですよね。『ザ・ベストテン』にチャートインした後に一度落ちて、また戻ってきたりしたのはすごく印象には残ってるんですけれども。常に眠いしお腹も空いてましたけど、楽しかったことは間違いないです。時代もよかったんでしょうね。まだ10代でしたから、先のこととか考えてないですし、今みたいにデジタル化してすべてが残されてゆくわけじゃないので、その時その時の瞬間を生きてるって感じでした。コンサートにしても、将来まさかこんな形でまた観られるようになるなんて思ってないですから、一所懸命集中してましたよね。その真剣さはみんなあったんじゃないかなって思いますね。
― 家庭用ビデオなんかもまだそこまで普及してなかった時代でしたから真剣でした。
早見:マイケル・ジャクソンが初めてテレビでスピーチした時があって、それを録ろうとして録音ボタンを押した途端に母に話しかけられて(笑)。「あなたの好きな人が出てるんじゃない?」なんて。「シーッ! 今マイケルが喋ってるの録ってるんだから静かにして!」なんてやってたらもう終わっちゃってて(笑)。あとで聴いたら母と私の声しか入ってなくてすごくショックだったのを憶えてます。
聴きながら英語を覚えられるようなアルバムが作れればいいな
― 早見さんや早見さんの歌を支持している今の若い方々も多いと思いますが、そうした声というのは届いていますか?
早見:長女が今大学3年生なんですけで、去年2年生だった時に、お友だちがサブスクで日本の音楽を聴いていたら、好きな歌があったと。それが私のファーストアルバムに入っていた「ゴンドラ・ムーン」という曲だったんです。それで、「この曲を歌っている人って知ってる?」って言うから、「あー、ママ」って言ったら驚かれて。写真は15、6歳の頃の私だから結び付かなかったらしくて、「それは40年前のママ」「えっ? 40年前の歌なの!?」その友だちもびっくりしたらしいですけど。そんな風に時代に関係なく、同じプレイリストで繋がって聴けるので、そういう意味ではいい時代なのかなって思いますね。
― 今は早見優さんであると同時にお母さまでもあるわけですが、その辺りの棲み分けはどんな感じですか?
早見:もう大学3年と1年でだいぶ大きくなりました。以前は一日一日が長く感じて大変だった時期もありましたけど、今考えると本当にあっという間だったなあって。子育てはまだ終わったわけではないですが、上はもう21になりましたからね。自分がこの世界に入った時よりずっと大人。長女が15歳の時には、私はこんなにしっかりしてなかったなと比較したことを憶えてます。今は情報源もすごいですからね。
― 2004年に出された『LET’S SING TOGETHER!』は娘さんに向けるようなイメージで作られたアルバムだったんでしょうか?
早見:そうなんです。20代の頃に「夏色のナンシー」を歌いたくなくなってしまった時期がちょっとありまして。大人のシンガーになりたいし、いつまでも「Yes!」はいやだっていう反抗期があったんですね。それがしばらく続いていた中で長女が生まれて、初めて少し長いお休みをいただいたんです。その時に子供をあやしながらラジオからスティーヴィ・ワンダーの歌が流れてきて、それを聴いて瞬時に10歳とか11歳の自分に戻れたんです。「あ、歌には魔法の力があるんだな」と思って、だからファンの方は「夏色のナンシー」が聴きたいんだ、青春時代に戻りたいんだなというのが解って。それがきっかけでまた歌うようになったんです。でもやっぱりナンシーだけではと思って、子育てをしているお母さま方から、“子供に英語を教えたい” っていうお手紙をたくさんいただいていたので、聴きながら英語を覚えられるようなアルバムが作れればいいなと思って企画したアルバムだったんです。
40周年イヤー限定! YouTubeチャンネルにもトライ
― 今もっとも重点を置かれていること、やりたいことはなんでしょうか?
早見:このコロナ禍で、私たちの仕事ってお客さまがいらっしゃらないと前に進めないんだなってことを痛感しました。少しでも早く収束して、歌やお芝居やミュージカル、いろんな舞台が以前のように出来るようになればいいなと。私も40周年を迎えて、ファンの方々もライヴの場などを待っていてくださると思いますので、少し遅れるかもしれませんがそれは絶対にやらなければと思っています。
今新たにチャレンジしているのはYouTubeなんです。チャンネルを初めてやりたいことをやれるのは楽しいんですが、これが結構頭をいためてるんですよ。4時間くらいかけて必死に作って1分30秒とか。「え! これしかならないの?」なんて言いながら(笑)。毎日アップしてる人ってすごいなって思いますよ。それでも一所懸命やってます。40周年イヤー限定ということで来年の4月まではやっていこうと思うんです。チャンネル登録よろしくお願いします(笑)!
― 改めて40周年を振り返られて、今の気持ちをお聞かせください。
早見:本当にひとこと、“感謝の気持ち” しかありません。こうしてお仕事をずっと続けてこられて、今回また新たなリリースでお話出来ることも、ずっと応援してくださっているファンのみなさんと、スタッフや家族の支えがあったからこそだと思っています。つい最近の仕事でも「こうしておけばよかった」とか、日々新しい発見があって楽しいんですよ。常に完成形はないので、まだまだ活動を続けていきたい。そのためにも健康を第一にしてこれからも頑張っていきたいと思います。まだ企画段階ですが新曲のお話も進めています。どうぞご期待ください!
(取材・構成/鈴木啓之)
***
いかがでしたでしょうか。常に新しいことに積極的にトライする早見優さん。その意気込みが伝わってきました。デビュー40周年記念企画はまだ始まったばかりです。今後の展開が本当に楽しみです。貴重なお話、本当にありがとうございました。
デビュー40周年のアニバーサリー 早見優の魅力を大特集!

▶ 早見優のコラム一覧はこちら!
2022.04.25