Flashdance…What A Feeling / Irene Cara80年代のオリコンチャートアクション、洋楽作品で1位に輝いたのは?
50年強の歴史を誇るオリコンのウィークリー・シングルランキング、いわゆる総合シングルチャートにおいて、洋楽作品が1位を獲得した例は、これまでに20世紀中でも12作しかない。その大半が1970年代までに誕生していたが、では1980年代はどうだったのだろうか?
共有感が大きな洋楽ヒットが最も多く誕生した80年代だったが、オリコンの総合シングルランキングで1位を獲得したのはたったの2曲。ひとつはみんな大好きノーランズ「ダンシング・シスター(I’m in the Mood for Dancing)」(1980年)、そしてもうひとつはアイリーン・キャラの「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング(Flashdance… What A Feeling)」(1983年 ※以下フラッシュダンス)だった。
「フラッシュダンス」全米でのメガヒットとサントラブームで日本でも大ヒット
80年代に勃発した洋楽トピックのひとつ、“サントラブーム” の直截(ちょくせつ)的きっかけとなった映画『フラッシュダンス』(1983年)のリード曲であり、全米ナンバーワンになった楽曲だったこと、これが日本でのヒットの最大要因ではあった。
『フットルース』、『ゴーストバスターズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『トップガン』(1984~86年)等々といった、サントラブームの象徴的存在に先駆けて大ブレイクした『フラッシュダンス』からはこの表題曲とマイケル・センベロ「マニアック」が大ヒット、特に「フラッシュダンス」は6週連続全米ナンバーワンを記録、これほどのメガヒットになれば日本でのヒット伝播に多大なる貢献をしたことは間違いない。
海外でのヒット(特に米ビルボード)が、まだ日本でのヒットに直結していた時代だったというのもあるだろう(もちろんすべてが直結していたわけではないが)。
「フラッシュダンス」ヒットのキモになった日本のディスコ
しかしそれだけで「フラッシュダンス」がオリコン1位になったわけではない。
日本での映画ヒット、ポスト・ディスコ期を見据えたジョルジオ・モロダー(ドナ・サマー等をスターダムに押し上げたプロデューサー)のサウンドプロダクション、複数の日本人シンガーによるカバー、アイリーン・キャラのスター性、そして日本のディスコでの少なからずの浸透… 等々の要素が複雑に絡み合って、日本でのシングルランキング1位が達成されたのだ。
中でも過渡期を迎えながら隆盛を極めていた当時の日本のディスコ事情は、実はヒットへの大きなキモになっていたように思えてならない。
バブルの時代へと向かっていく1983年当時、日本のディスコは隆盛を極めていた。70年代のディスコブームは『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年米公開、1978年邦公開)以降1979年頃には新宿・六本木を中心にピークを迎えたかと思えたが、いわゆるサーファーディスコ(六本木中心)系のピークは1980年代初頭に据えられる。
サーファーディスコの基盤はもちろんソウルミュージックであり、いわばコアな音楽好き/踊り好きが集っていたというのが大方の印象。『サタデー・ナイト・フィーバー』以降急激にすそ野が広がった “ディスコ文化” は、グレーな音楽好き・踊り好きを徐々に六本木へと流入させていったわけで、それが1980年代に入ってから顕著になってくる。
1983年に入るころには、サーファーディスコからいわゆる “オール・ジャンル” 系ディスコへと、ディスコ文化の中心が移っていったのだ。ハイエナジー~ユーロビート系の主に欧州系ダンスミュージックで人気を博したマハラジャのオープンは翌1984年のことだった。
耳なじみの楽曲を欲する受け手、フロアでの陶酔感を演出できる送り手
フロアで踊らせることを目的に作られたダンスミュージック(ディスコソング)を堪能する場こそがディスコだったのが、ごく普通の一般層(この言い方は適当ではないかもしれないが…)といえるグレー層の参入、要はディスコへの敷居が歴然と低くなっていった一助が、いわゆるビルボード・トップ40系楽曲、特にダンスに特化していないアップテンポなメガヒット作品たちの存在だったのだ。
「フラッシュダンス」はもちろん基盤はダンスミュージックではあるが、初期段階でのヒットのきっかけは海外でのメガヒットっぷりの伝播であり、それは例えばポリス「見つめていたい」やシカゴ「素直になれなくて」といったヒットソングと同列のもの。それが1983年という時期において、耳なじみの楽曲を欲する受け手側の需要と、(映画とリンクした)フロアでの陶酔感を演出できる送り手側の供給が、がっちりかみ合ったのが「フラッシュダンス」だったと言えよう。
メガヒットの証! 麻倉未稀、山本リンダ、畑中葉子もカバー
新宿系で重宝したナック「マイ・シャローナ」(1979年)に端を発し、80年代の幕開け以降ホール&オーツ「プライヴェート・アイズ」(1981年)、メン・アット・ワーク「ノックは夜中に」(1982年)等々、多くのトップ40系ヒットが、ディスコの敷居を低くしながら “オールジャンル” 系ディスコ隆盛期に向かっていくのだが、その決定打的な存在こそが「フラッシュダンス」だったのではないだろうか。
まあ同時並行的にジャーニー「セパレイト・ウェイズ」(1983年)、ビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」(1983年)等ロック畑からの決定打が出現、その後のヨーロッパやボン・ジョヴィにつながっていくわけだが… 1983年における全米ナンバーワン級の最大 “ダンスミュージック”メガヒットはというと、「フラッシュダンス」以外のなにものでもない。
ほぼ同タイミングで、麻倉未稀、山本リンダ、畑中葉子ら、3人もの日本人女性シンガーが日本語カバーをリリース、こんなことも「フラッシュダンス」が日本においてメガヒットになっていたという証になっている。
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2022.04.15