エンタメの原点は「黄金の6年間 1978-1983」にあり
「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」
―― かの天才物理学者アルベルト・アインシュタインの言葉である。人生において、いかに若いころに身に付いた嗜好や価値観が、大きな位置を占めるかという意味合いだ。要は、13歳から18歳までの中高6年間の青春時代に習得した様々な“偏見”こそ―― その後の人生において、当人の“常識”として並走し続けるということ。巷でよく聴く「外見は年とっても、中身は永遠の17歳」なる言説の正体は、コレである。
その図式をエンタメの歴史に当てはめたのが、このリマインダーで僕がシリーズコラムとして連載している「黄金の6年間」だ。いわば、エンタメの青春時代。この度、日経BPで単行本化され、
『黄金の6年間 1978-1983 ~素晴らしきエンタメ青春時代』として、今日―― 3月23日に上梓された。
そう、黄金の6年間――。
それは、1978年から83年までの6年間、エンタメの様々な分野―― 音楽、テレビ、小説、映画、広告、アニメ等々で、新人が爆誕し、試行錯誤が繰り返され、垣根を越えてクロスオーバーが進んだ時代である。その主な舞台である東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった6年間だ。
そして、その時代に生まれたエンタメの流れは、今やスタンダードとなり、令和の時代も生き続けている。つまり、今のエンタメの原点は黄金の6年間にある。
実際、テレビ界は、今も黄金の6年間にブレイクしたタモリ・ビートたけし・明石家さんまのビッグ3が健在だし、文学界では、毎年ノーベル文学賞が噂される村上春樹サンも、その起点は黄金の6年間にある。音楽界では、重鎮サザンオールスターズが黄金の6年間の申し子である。
アメリカ西海岸から吹き始めた時代の変化の風
思えば、人生、振り返って面白いのは、分別のある大人に成長した時代よりも、感性のままに行動した青春時代である。毎日のように、昨日とは違う新しい何かを見つけ、失敗を繰り返しつつも、挑戦することを恐れなかった、あの日々――。そこには、しがらみがないゆえの自由があった。「黄金の6年間」もそれとよく似ている。
あの時代―― 圧倒的な自由があった。いわば、思想なき感性の時代だった。
1975年、南ベトナムのサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した結果、それまで世の中を覆っていたラブ&ピースの “思想” が雲散霧消し、代わってノン・ポリティカルな空気感が充満し始めた。時代の変化の風は、まずアメリカ西海岸から吹き始めた。
それは、ベトナム帰還兵が心の傷を癒すためにカリフォルニアの太陽の下で始めたテニスやサーフィンなどのアウトドア・スポーツだったり、アメリカンニューシネマに代わる映画『スター・ウォーズ』に象徴されるハッピーエンドの映画だったり、アップルやマイクロソフトなどパーソナルコンピュータの若き旗手たちの登場だったり―― 要は、若者たちによって、ポップで明るい、新しい時代が作られようとしていた。
その変化の風を、日本でいち早く察知したのが、平凡出版(現・マガジンハウス)の編集者・木滑良久サンだった。
フォーマルからカジュアルへ、フォークからシティポップへ
1976年、彼は新しい雑誌『POPEYE』を創刊した。それは、アメリカ西海岸のアウトドア・スポーツや、その周辺のファッションやライフスタイルなど、カリフォルニアに芽生えた新しいカルチャーを紹介する雑誌だった。それを起点に、日本の若者たちの目も、それまでのパリから西海岸へと移行する。即ち、スポーツやファッションなど、あらゆる分野において、フォーマルからカジュアルへの転換が進んだ。
同じころ、女性ファッション誌の『JJ』(光文社)も、先行する『anan』や『non-no』が外国人モデルを使ってパリの最新モードを紹介するのに逆行して、素人の女子大生をモデルに起用し、ニュートラやハマトラなど、日本国内のショップで売られるカジュアルなトレンドの紹介を始めたところ―― 大評判に。
音楽界では、反戦や貧困を歌うフォークに代わり、ニューミュージックが台頭する。とはいえ、旧来のニューミュージックが、ユーミンやそのバックを務めるティン・パン・アレー(細野晴臣・鈴木茂・林立夫・松任谷正隆)ら、ポップス志向やサウンドの先進性が明確だったのに対し、フォークから転換した新興勢は、その定義が曖昧だった。それらと差別化する必要性から生まれたのがシティポップだった。
「黄金の6年間」の幕開け、その真髄とは?
かくして、黄金の6年間が幕開ける。それは―― ラブ&ピースの思想の重しが取れたおかげで、圧倒的に自由だった。フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」と、全社を挙げてエンタメ志向に振り切った。また、旧来の権威が力を落とした結果、市場で売れることが正解になった。
『ザ・ベストテン』(TBS系)は出場歌手の選定をプロデューサーの裁量ではなく、市場のランキングに委ねた。何より、あらゆる業界で新人たちが世に出やすくなった。彼らは旧来のカテゴリーに捉われず、業界をまたいでクロスオーバーを始めた。村上春樹サンは文壇を嫌い、コピーライターやイラストレーターらとのコラボを楽しんだ。
黄金の6年間の醍醐味とは、いわば“過渡期”の面白さだった。「明日は、今日とは違う、新しい何かと出会えるかもしれない」とワクワクした日々。毎日がニュースの連続で、もはやリアリティー感やドキュメンタリー性もエンタメの要素の1つになった。そんな非・予定調和が生み出す“カオスさ”こそ、今振り返ると、黄金の6年間の神髄だったと思う。
黄金の6年間の幕開けと共に始まった「ザ・ベストテン」
最後に、何ゆえ、黄金の6年間は終わったのか、そこに言及したいと思う。これは単行本にも明確な理由を書いていない。このリマインダーのコラムで初めて明かす、僕なりの理論である。
1つのヒントがある。黄金の6年間の幕開けと共に始まった『ザ・ベストテン』だ。面白いことに、かの番組の視聴率は黄金の6年間と見事に連動している。初めて視聴率が30%を超えたのは、番組開始年の1978年11月16日。松山千春サンの「季節の中で」が1位となり、それまで番組出演を拒んでいた千春サンが、ファンの声に応えて、旭川のコンサート会場から中継出演した回である。ところが、3分の独白の予定が8分に伸びてしまい、遅れてスタジオ入りした山口百恵サンの歌が飛ぶ事件が起きる。だが、そんな非・予定調和こそ、またベストテンの醍醐味だった。
ベストテンの視聴率が最も盛り上がったのは、番組開始4年目の1981年である。その年は寺尾聡サンの「ルビーの指環」が12週連続1位を記録した年であり、アイドル勢では聖子・トシちゃん・マッチが三つ巴の人気で、それ以外でも「恋人よ」の五輪真弓サンとか、「街角トワイライト」のシャネルズ(現・ラッツ&スター)とか、「みちのくひとり旅」の山本譲二サンとか、「もしもピアノが弾けたなら」の西田敏行サンとか、出場歌手がバラエティに富んでいた。まさに、カオスの魅力。
あのユーミンも生涯一度だけ「守ってあげたい」で同番組に出演したが、それも1981年だった。ちなみに、番組最高視聴率も同年9月17日の唯一の40%超えとなる41.9%である。ちなみに、この回の1位は「ハイスクールララバイ」のイモ欽トリオだった。
「黄金の6年間」終了のサイン、番組からが消えた“カオスさ”
だが―― そんな風に、我が世の春を謳歌した『ザ・ベストテン』も、1984年あたりから視聴率が停滞し始め、1985年から一気に下降モードに。同年4月に司会の久米宏サンが降板した影響も大きかったが、もう一つ―― 見逃せない、ある事情があった。
1986年、1987年と、ベストテンの視聴率は戻らなかった。そればかりか、1988年には年間平均視聴率が遂に20%を切り、9月には番組始まって以来、初の一桁視聴率を記録する。1989年は年間平均視聴率を一気に前年から6ポイント以上も下げ、11%台に――そして同年9月28日、番組は終了した。足掛け12年、全603回の歴史的番組は幕を下ろした。
ベストテンを失速させた最大の原因は何か?―― アイドルである。
皮肉にも、1981年に聖子・トシちゃん・マッチのアイドル三つ巴で年間平均視聴率33.6%を記録した同番組だが、番組を失速させた遠因も、またアイドルだった。
面白い話がある。ベストテンは毎年、暮れの最後の放送で「年間ベストテン」を発表する。その際、100位からランキングを発表するが、アイドルは曲が複数曲ランクインしても、どれも同じくらいの順位なのだ。要するに―― それは曲というより、アイドル自身についた人気。裏を返せば、どんな曲を出しても、大きく失敗しないのが、アイドルビジネスの利点である。気がつけば、レコード会社はリスク回避の面から、次第にアイドルへの投資を増していった。
思えば、黄金の6年間の『ザ・ベストテン』は、出場歌手がアイドルに限らず、ニューミュージックやフォーク、ロック、演歌など多岐に渡った。スタジオは様々なジャンルの歌い手が集うカオスの様相で、その順位は、純粋に楽曲が評価されてのものだった。それが、次第に出場歌手に占めるアイドルの比重が高まり―― その顔ぶれが固定化しだしたのである。
気がつけば、番組からカオスさが消えていた。それが、「黄金の6年間」の終了を知らせるサインだった。
▶ 黄金の6年間に関連するコラム一覧はこちら!
2022.03.23