ネオロカビリーとは――。 56年から58年にエルヴィス・プレスリーに続けとばかりにメンフィスのサン・レコード周辺で集中的にレコーディングされた生粋のロカビリーではなく、これらをベースにしつつもポストパンク期の音楽的影響を受けた主にイギリスのバンドから派生した80年代のムーヴメントを指す。 この言葉が日本で定着したのは、83年頃だろうか。81年にストレイ・キャッツが日本に上陸。同時期に原宿のレジェンドとされる和製ロカビリーバンドのパイオニア、ブラックキャッツがデビューしている。 当時の日本では誰も見向きもしなかったロカビリーが、気付けばフィフティーズブームと相成り、多くの不良少年の間で熱狂的に支持されるようになる。そして、これが定着するとイギリスの多くのネオロカビリーバンドのレコードが輸入盤専門レコード店の棚を賑わせた。この余波はそれ以後も脈々と生き続け、89年に再度、大きな波が来る。 きっかけは、ストレイ・キャッツ再結成、そして、3年連続の来日だった。さらに、このムーヴメントの立役者として、二つのバンドが挙げられる。 ひとつは、フィフティーズファッションの聖地、原宿クリームソーダからデビューしたマジック。そして、もうひとつが、ストレイ・キャッツの武道館公演でフロントアクトに抜擢され、メインアクトに負けず劣らずの熱演で、武道館一万人の客席を一瞬して熱狂の渦に巻き込んだザ・ヴィンセンツだ。 90年4月28日――。 この日、『三宅裕司のいかすバンド天国』を何気なく観ていたのは、翌週に日比谷野外音楽堂でのヒルビリー・バップス解散ライブ(5月5日)を控えていたリーダーの川上剛氏だ。 ちなみに川上氏は忌野清志郎の呼びかけによりザ・タイマーズに加入し、「デイ・ドリーム・ビリーバー」のヒットもいまだ鮮烈な記憶として残る日本屈指のウッドベーシストである。そして、氏は深夜のブラウン管に映ったあるバンドに釘付けになる。 「俺はこいつと絶対バンドを組む!」 視聴者を切りつけるような荒井謙氏の鋭い眼差し。バンドの名は、The TRUMPS(トランプス)。フロントマンであった荒井氏が「最後の切り札」という思いを込めて名付けたバンドだった。50年代、60年代のロックンロールに根差しながらも、どこか NYパンクを思わせるような風情。ロックンロールの本質を凝縮した不良っぽいステージングで見事 “完奏” し、チャレンジャー賞をはじめ、数々の賞を受賞するが、惜しくもこの週のイカ天キングだった LITTLE CREATURES に敗れてしまう。しかし、ここからが本筋だ。 話はさらに遡って88年3月29日、川上氏がリーダーを務めたヒルビリー・バップスは、本当にこれからという時期にヴォーカリストである宮城宗典氏を突然失ってしまう。 この頃、ヒルビリーのサウンドはザ・スミスやスザンヌ・ヴェガなど、様々な音楽を吸収し、自らのロックを確立させつつあった。しかし、バンドは新たなヴォーカリストで活動を再開するも混沌の中、解散を表明することになる。 その後、川上氏は所属していたキティ・レコードを通して、トランプスの荒井氏に連絡を入れる。こうして二人は運命の出会いを果たした。そして90年6月、それまでの混沌を断ち切るかのようにロカビリーに原点回帰、ザ・ヴィンセンツを結成する。 「ロカビリーバンドは火の玉みたいじゃなくちゃダメだ」 これは、川上氏がよく口にしていた言葉だが、まさに火の玉のごとく、最終兵器ザ・ヴィンセンツは放たれた。荒井氏を迎え入れたことで、ロカビリーにパンクロックの鋭角的なアプローチを抽入した彼らは破竹の勢いで90年代初頭のロカビリーブームを牽引、全国にその名を轟かせた。インディーズより3枚のフルアルバムを発表し、満を持してメジャーデビュー。90年代にキティより2枚のアルバムを残している。 94年の夏、ザ・ヴィンセンツは新宿ロフトのライブを最後に解散してしまうが、この解散と同時に、全国を席捲したロカビリーブームも緩やかに失速していく。近年、彼らのインディーズ時代の音源をリマスターしたリイシューアルバム『KOOL AND KRAZY WORLD OF THE VINCENTS』(2009年)がリリースされ、大きな話題となったが、2016年8月1日に荒井謙、永眠――。 三回忌には全国のフィフティーズショップやロックショップにおいて、ザ・ヴィンセンツの活動期を中心とした氏の在りし日のビデオ上映会が催され、多くのファンが当時を偲んだ。 そして、ザ・ヴィンセンツからロカビリーの初期衝動を受けた僕たちは、その熱から醒めることなく、21世紀をタフに生きてる。
2019.01.24
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YouTube / sasadaisan