自らを「交換可能な奴ら(リプレイスメンツ)」と名乗ることは、決して人生に対する諦めなどではなく、自分たちが「交換 “不” 可能」であることの誇りや自覚に立脚している。「俺たちは社会の歯車じゃない!」という目覚めこそがパンクなのだとしたら、リプメイスメンツというこのミネアポリス出身の田舎者バンドは、紛れもなくパンクだったといえる。
アルバム『ティム』に収録された「バスターズ・オブ・ヤング」という曲がある。ここには、音楽批評家マイケル・アゼラッドがリプレイスメンツのイメージとして挙げた「不適合者(misfit)、負け犬(loser)、田舎者(yokel)」という負の三要素が余すところなく収められている。冒頭のポール・ウェスターバーグの「うわあああああ!」という言葉にならないシャウトに、レーガン政権下、ヤッピー的サクセスドリームから零れ落ちてしまった「敗者の精神」が凝縮されているようだ。
この曲はMTV向けにPVが作られたが、その内容は驚くべきものだ。クロースアップしたスピーカーが振動する様子がひたすら映され続け、徐々にカメラは引いていき、ソファでくつろいでいる若者の手と燻らす煙草の煙だけが見える。曲が終わると若者はすっと立ち上がり、スピーカーを苛立たし気に蹴り飛ばし、外へ飛び出していく…… それだけである。
普通に考えれば、何の面白みもないPVだ。「プロモーション」という観点でいえば、間違いなく落第点である。でも少なくとも、ヤッピー的成功になど何の縁もない「俺」の魂には触れた(当時生まれてないけど)。おそらくスピーカーをひたすら見つめたことなどなかった世界中の「俺」達もまた、ただただこの映像に狼狽えたに違いない。「一体何が起こっているのか?」
アンチ・コマーシャルのつもりで撮ったPVは、ここで予想外の「映像の深さ」を獲得している。これほどゆとりある時間と空間を映し出したPVはかつてなかっただろうし、これほどリスナーと映像を同化させる体験的PVもかつてなかったはずだ。
スピーカーの「円」というフォルムにこれほど見入ったことはなかったし、立ち上る紫煙にこれほど豊かな詩情を感じたこともなかった―― 要するに詩的映像の次元なのだ。動的な楽曲に対して、不動の映像があてられる。でもそこに不調和はなく、むしろパンクの生き急ぐ衝動がより克明になる。
「くたばれMTV!」と中指を突き立てて作られたであろう、本来面白くもなんともないはずの映像が、結局最も面白い映像表現となってしまうという逆理。リプレイスメンツはただ「音」にのみ立脚することで、映像を一切顧みないことによって、逆説的にPVそのものを刷新してしまった。しかし、新たな表現形式が生まれるときというのは、そうした偶発・事故的なものではないだろうか。
彼らはその後、「レフト・オブ・ザ・ダイアル」や「アレックス・チルトン」など、同じ作風のPVを連発することになるのだが、やはり「バスターズ・オブ・ヤング」ほどの衝迫力は持ちえなかった。
やはり意図的過ぎるし、繰り返すことで反抗の身振りそのものがクリシェになっている(というか資本主義の生産→再生産→再々生産の無限地獄の論理にのっかっているように見えるのだ)。横転、事故、偶然だったからこそ、「バスターズ」は革命足りえた。青春が短く一度きりであるように、パンク的表現も一度きりの瞬間芸なのだと思う。
2017.08.07
YouTube / Warner Bros Records
YouTube / RHINO
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