1981年(昭和56年)の8月8日土曜、高1の僕は丸の内東映(現:丸の内TOEI)にいた。この日は松田聖子の初主演映画『野菊の墓』の公開日。初回上映後舞台挨拶があるというので駆けつけたのだった。
とはいえ上映開始30分前に着いたこともあり、1,000円の前売券で入場した僕は正面の客席後方で立ち見となった。当時映画館は基本自由席、立ち見も可能。そして舞台挨拶には特別料金は無かった。正に隔世の感、そして牧歌的。
9時10分、当時松田聖子がCMソングを歌っていた資生堂エクボのCMが2本流れ、直ぐに映画本編が始まった。自ら歌う主題歌「花一色~野菊のささやき~」が流れる中、主人公民子役の聖子が、おでこも露わにスローでこちらに向かって走ってきた。
明治の歌人であり小説家、伊藤左千夫の同名の小説の映画化はこれが3回めだった。一作めの木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』は名作として名高い。
松田聖子は当時、デビューした前年1980年に入れ替わるように引退した山口百恵の後釜と目されていた。『伊豆の踊子』を始めとする文芸映画に何本も主演していた百恵に倣いデビュー作を文芸映画にしたのも、よって自然な流れだったのかもしれない。
しかし百恵は’70年代だったが聖子は’80年代だった。
聖子ちゃんカットで隠されていたおでこが日本髪を結うことで露わになり驚かなかったファンは誰もいなかったであろう。本人もかなり気にしていたが、そのおでこは意外と “存在感があった”。
デビューからシングル、アルバム共にベタな歌謡曲というより洗練された歌謡ポップスと呼ぶべきだった歌手、もといシンガー松田聖子には違和感が否めないルックスであった。
5月14日にはTBS『ザ・ベストテン』で映画の撮影所から生中継で4位の「夏の扉」を民子の姿で歌うという、名場面ならぬ迷場面も生まれている。
聖子ファンの高校の友人も結局映画館に足を運ばなかった。『野菊の墓』はファンを選んだのだ。映画に先駆けて7月21日にリリースされた、主題歌「花一色~野菊のささやき~」をB面に従えたシングル「白いパラソル」(両面とも財津和夫作曲)を、両曲共に、そしてジャケットも好きになり、デビュー以来6枚連続でシングルを購入した熱心なファンである僕には、映画館に行かないという選択肢は無かった。
「花一色」が流れる中、スローで走る民子からワンカットのまま野菊にピントが送られ、そこにタイトルが出るという洒脱な幕開けからして、この映画の成功は約束されていたのかもしれない。監督は長年の助監督を経てこれが監督第一作となった澤井信一郎。次作で薬師丸ひろ子主演の傑作『Wの悲劇』を手掛けた名匠である。
民子が想いを寄せた政夫(演じるは2万人のオーディションから選ばれた一般人で、程無く引退した桑原正)が老人となって回想する等、原作には無いアレンジも随所に程良く加えられ、主演2人の演技は率直に言って固かったが、最後にはきちんと目頭が熱くなる佳作であった。映画終了後、自然に拍手が沸き起こったことにも無理は無かった。
松田聖子はこの日は黄色いワンピースで、聖子ちゃんカットで登場。拍手が嬉しかったとのこと。プレゼント大会があり、舞台から投げられるボールをキャッチ出来ればサイン等が貰えたのだが、客席後方では到底届かなかった。300円で買ったプログラムを手に僕は映画館を後にした。同時上映は真田広之主演の『吼えろ鉄拳』だったが、wikipediaにも項目が無いこの映画を僕は未だ観たことが無い。
結局『野菊の墓』は最初で最後の松田聖子主演の文芸映画となる。そして僕が観た最初で最後の聖子主演の映画にもなった。他の作品を観ていない僕が言うのも何だが、『野菊の墓』が松田聖子主演映画で出色であることに異論のある方はいらっしゃらないだろう。
「白いパラソル」は「花一色」共々、松本隆が作詞した初めての聖子のシングルであった。“アーティスト松田聖子” はもうそこまで来ていた。「白いパラソル / 花一色」は、アイドル聖子のファンだった僕が買った最後のシングルになってしまったのである。
そして、あの頃あんなにおでこを出すのを恥ずかしがっていた松田聖子が今では…
2017.08.08
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