視聴率100%男と騒がれた萩本欽一
歴史は後から作られる。
例えば、映画『男はつらいよ』というと、寅さんが古き良き昭和の地方を旅した印象だけど、実はあの町並み、あの時代のど真ん中のものではない。山田洋次監督が全国をロケハンして回り、いまだ開発の手が入っていない風情ある土地を “これはフィルムに残すべき” と選んだ場所である。
考えてみれば、同シリーズが始まったのは1969年。翌年には大阪万博が開かれ、1970年代の前半にはマクドナルドやセブンイレブンが日本に上陸して、街の風景が一変。そう、寅さんが撮られた時代は意外と新しかったのだ。
1970年代を代表する2大ガールズグループ―― キャンディーズとピンク・レディーの関係もそう。両者はライバル同士のように見られがちだが、3年遅れでデビューしたピンク・レディーは人気・セールスとも時代のトップランナー。片やキャンディーズは数ある人気アイドルの中のひと組。ただ、衝撃の解散宣言から、伝説の解散コンサートへ至る有終の美のイメージが強く、解散後にピンクのライバルに格上げされた感がある。
その流れでいえば、かの萩本欽一―― 欽ちゃんの人気も、1980年代前半は出演番組が軒並みヒットして “視聴率100%男” と騒がれたけど、実際の空気感は少々違った。1980年の漫才ブームでテレビの笑いの質が変わり、特にビートたけしサンのブレイクで、世の男子中高生はみんな、たけしサンを教祖と崇める一方、欽ちゃんの笑いは既に時代遅れになりつつあった。
じゃあ、なぜ “視聴率100%男” に?
―― そこだ。それが今回のテーマである。思うにそれは、芸人・欽ちゃんの人気というより、事実上の “プロデューサー・萩本欽一” が仕掛ける番組や、欽ちゃんが選んだ魅力ある出演者たち、そして彼らが歌う楽曲の人気ではなかったか。例えば―― そう、今年で結成45周年を迎えるイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」がそうであったように。
もともと欽ドンはラジオ番組だった
少し、時間を巻き戻してみよう。時に1974年、あるラジオ番組が中高生に人気を博していた。ニッポン放送の『欽ちゃんのドンといってみよう!』である。通称・欽ドン。平日夜9時台の10分ほどの帯番組で、日替わりで様々な投稿コーナーが用意された。中でも一番人気があったのが、水曜日の「レコード大作戦」だった。例えば、こんな内容だ。
【母と子の会話】
子:「母ちゃん、どうして毎日、相撲ばかり見てるの?」
母:「うるさいわね…… アラやだっ、まわしが取れた!」
~ここでレコードが流れる~
♪ ゆらゆらゆれる……(小柳ルミ子「私の城下町」)
―― とまぁ、実に他愛もないネタだが、これでも当時は最先端の笑い。小学生だった僕は眠い目をこすりながら、毎週水曜日だけ聴いていたのを覚えている。それから、割とすぐにフジテレビで欽ドンのテレビ版が始まった。もちろん、司会は欽ちゃん。時に1975年4月――土曜夜7時半からの90分番組で、なぜかタイトルは一文字だけ変わって、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』だった。
TBSとフジテレビの “土8戦争” に2度敗れた欽ちゃん
テレビ版『欽ドン』の目玉コーナーも、ラジオ同様「レコード大作戦」だった(そもそも、同コーナーの人気がハネて、テレビ化されたようなもの)。スタジオのセットは、観客を背に、司会の欽ちゃんとレギュラーの前川清サン、それにアシスタントの香坂みゆきサンが正面を向いて座るというもの。テレビ画面で観客の笑い顔がダイレクトに見られる斬新な演出だった。
この時、テレビ用に新たに採用されたシステムが、読まれたハガキがどれくらいウケたかを3つに分類する “バカウケ” “ややウケ” “ドッチラケ” だった。
同番組で印象に残っている出演者といえば、先の前川清サンと、彼が所属する内山田洋とクールファイブの人たち、それに “気仙沼ちゃん” なる素人の女の子だった。特に前川サンのトボけた喋りが面白く、番組内で欽ちゃんと “コント54号” を組んで、コントや漫才を披露したこともあった。
今、記録を見ると、同番組は休止を挟みながら1980年3月まで続いているが、勢いがあったのは、せいぜい最初の2年。何せ、その裏には王者――TBSの『8時だョ!全員集合』が控えていたから。そう、世にいうTBSとフジテレビの “土8戦争” である。
もともと、この枠は、さらにさかのぼって1968年に、フジテレビの名物女性プロデューサー、常田久仁子サン(通称:おトキさん)が、欽ちゃんと坂上二郎サンを起用して、『コント55号の世界は笑う』を仕掛けた枠だった。当時、55号は大人気を博したが、間もなく翌1969年にスタートした『8時だョ!全員集合』に敗れた因縁の歴史があった。つまり―― 欽ちゃんはドリフと2度対戦して、2度敗北する屈辱を味わったのだ。しかし、天才・萩本欽一は諦めない。時間帯を変え、再び帰ってくる。少々前置きが長くなったが、それが今回の本題となる、81年4月にスタートしたフジテレビの『欽ドン!良い子悪い子普通の子』である。
「欽ドン!」の肝はフツオ役の長江健次
同番組の枠は、後に数々のヒットドラマを生む、フジの “月9” である。それまで何をやっても当たらず、前年(1980年)の5月に42歳の若さで編成局長に就任した日枝久サンは “10年間は欽ちゃんに任せるから” と、半ば欽ちゃんに下駄を預けたカタチだった。
番組の柱は、「良い子悪い子普通の子」という、いわゆる “三段落ち” のコントコーナーである。過去の姉妹番組同様、視聴者からのハガキをもとに構成された。番組タイトルはここに至り、ラジオ時代から愛称として使われてきた『欽ドン!』が正式に採用される。
看板コーナーの3人―― ヨシオ(山口良一)とワルオ(西山浩司)とフツオ(長江健次)は、オーディションで選ばれた。山口サンと西山サンは既にタレントのキャリアがあり(特に西山サンは中学時代に日本テレビの『スター誕生!』で欽ちゃんと出会い、弟子入りした経緯があった)、長江サンだけが素人の高校生からの抜擢。しかも、一度オーディションに落ちての復活採用だった。
実は、同番組の肝は、初めからフツオ役の長江サンだった。元々、ラジオ時代からリスナーのハガキで笑いを作ってきた欽ちゃんにとって、素人と絡んで笑いを作り上げるスタイルが彼の原点、いわばレーゾンデートルだった。
考えてみれば、コント55号の坂上二郎サンも、元は歌手志望だった。欽ちゃんと出会い、初めてコメディの才能を引き出されたのだ。土曜時代の『欽ドン』のレギュラーだった前川清サンも同様。彼も欽ちゃんと組むことで、あのトボけたキャラを開花させた。そう、その人の眠れる笑いの才能を掘り起こす―― それが天才・萩本欽一だった。もはや、その才能はプロデューサー的と言っていい。
「ハイスクールララバイ」は作詞・松本隆、作曲・細野晴臣
『欽ドン!良い子悪い子普通の子』は当たった。最高視聴率38.8%は、現行の視聴率制度になった1977年以降、バラエティ番組の歴代3位である。最大の要因が、看板コーナーの3人で結成された “イモ欽トリオ” によるデビュー曲、「ハイスクールララバイ」の大ヒットであるのは言うまでもない。リリースは、番組開始から4ヶ月後となる1981年8月5日だった。
とにかく とびきりの美少女さ
うかつに近寄れば感電死
授業も上の空よそ見して
チョークが飛んで来た
ハイスクール・ララバイ
作詞・松本隆、作曲・細野晴臣。ご存知、元 “はっぴいえんど” の座組である。イントロからして「ライディーン」を彷彿させるように、それは100%、YMOのパロディだった。山口サンと西山サンの小芝居―― エアプレイも笑わせる。
ところが―― そこへ長江サンがフツーに歌い始めると、僕らはたちまち打ちのめされた。コミックソングと思われたその楽曲は、意外にも、めちゃくちゃカッコよかったのだ。
100%片思い
Baby I love you so 好き好きBaby
100%片思い
グッと迫れば 無理無理 Baby
実際、TBS『ザ・ベストテン』では同年9月10日に初めて1位になると、そこから8週連続で首位の座を守った。ちなみに、2週目の1位となった9月17日は同番組の歴代最高視聴率41.9%の回。トリオの人気はもはや社会現象となり、「ハイスクールララバイ」はミリオンセラーとなった。そう、コミックソングながら一流の作家陣を揃え、作品として手を抜かない姿勢は、プロデューサー・萩本欽一の面目躍如だった。
他局でも同様の手法でヒット曲を連発
そして欽ちゃんは、同様の手法を他局の自分の番組でも実践する。テレビ朝日の『欽ちゃんのどこまでやるの!』(通称:欽どこ)では、三つ子の “のぞみ・かなえ・たまえ” を演じる高部知子・倉沢淳美・高橋真美の3人を “わらべ” と命名。番組のエンディング曲を歌わせたところ、これが大評判。急遽、1982年12月21日にレコードをリリースすると、こちらもミリオンセラーに。そう、「めだかの兄妹」だ。作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかし。編曲はなんと、坂本龍一である。
TBSの『欽ちゃんの週刊欽曜日』では、番組内ユニット “欽ちゃんバンド” から1983年5月21日、風見慎吾(現:風見しんご)サンが「僕笑っちゃいます」をリリース。作曲は、あの吉田拓郎である。同曲も『ザ・ベストテン』で5位にランクインするスマッシュヒットとなった。
奇しくも3曲とも、リリース時期は1981年から1983年と、僕が常々、エンタメの各ジャンルが垣根を越えて交わったと唱える『黄金の6年間』(1978年〜1983年)の中に収まる。もはや欽ちゃんのプロデュース力は、お笑い番組と音楽のクロスオーバーにとどまらず、局の垣根を越えた番組同士のクロスオーバーにまで及んでいた。この時期、楽曲のヒットがキッカケで、3番組の視聴率の合計が100%を超えたのは事実である。
1985年3月、欽ちゃんは充電と称して、全てのレギュラー番組を降板する。それは、もはや自身の笑いが時代の主流でないことを誰よりも悟っていた、プロデューサー・萩本欽一なりの美学だったのかもしれない。
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2026.09.09