10月9日

ドリフターズに戦いを挑んだ「オレたちひょうきん族」いったい何が革命的だったのか?

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フジテレビのバラエティ番組「オレたちひょうきん族」の視聴率が「8時だョ!全員集合」を抜いた日
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“土8戦争” コント55号の世界は笑う vs 8時だョ!全員集合


かつて、土8戦争があった。

そう、土曜夜8時のバラエティ番組の裏表対決である。最初に仕掛けたのはフジテレビだった。時に、1968年7月――当時、同局の昼の生放送の公開バラエティ番組『お昼のゴールデンショー』(司会:前田武彦)で彗星のごとく現れ、そのスピーディーな笑いで一世を風靡した新人お笑いコンビのコント55号(萩本欽一・坂上二郎)をメインに起用した『コント55号の世界は笑う』である。

2人を起用したのは、草創期のフジの演芸番組の女帝 “おトキさん” こと、常田久仁子プロデューサー。当初、荒っぽい喋り口調だった浅草芸人・萩本欽一を上品な言葉遣いの “欽ちゃん” に変えた、いわばテレビ界の育ての親。番組は55号の活躍で視聴率30%台の爆発的人気を博した。

ところが、そんな我が世の春を謳歌していた人気番組の裏に、突然殴り込みをかけたのが、草創期のテレビ界で “民放の雄” と恐れられたTBSである。時に、1969年10月―― 当時、ナベプロ(渡辺プロダクション)においてクレージーキャッツの弟分だったザ・ドリフターズをメインに起用した『8時だョ!全員集合』である。

裏表対決の最初の3ヶ月、『世界は笑う』は視聴率で『全員集合』をダブルスコアで引き離す。ところが、年が明けると状況は一変。両番組の視聴率はみるみる接近、間もなく逆転した。レギュラー番組を数多く抱え、忙しすぎるコント55号の自滅とも言えるクオリティ低下も原因の1つだったが、入念なネタの仕込みと豊富な稽古量で、公開生放送に挑むドリフの貫禄勝ちだった。1970年3月、『世界は笑う』は終了する。

荒井注のドリフターズ脱退、志村けんの加入


土8戦争はこれで終わらない。

それから5年後の1975年4月、再びおトキさんが登場し、かつてのリベンジとばかりに、今度は55号ではなく、萩本欽一のソロで『全員集合』に戦いを挑む。『欽ちゃんのドンとやってみよう!』である。同番組は人気のラジオ番組をテレビ化したもので、ドリフの作り込まれた笑いに対し、視聴者から送られたハガキをもとにアドリブも入れつつ、笑いを作る欽ちゃんのセンスが新しかった。同番組は話題性も手伝い、人気で『全員集合』を上回る――。

ところが、そこへ『全員集合』の救世主が現れる。ドリフの荒井注サンの脱退の穴を埋めるべく加入した、メンバー最年少の志村けんサンのブレイクである。加入から2年ばかりは芸風を確立できずにいたが、同番組のコーナー “少年少女合唱隊” で、「東村山音頭」から人気沸騰。『全員集合』は息を吹き返し、再び、欽ちゃんはドリフの前に敗北する。

メインターゲットは中高大学生「オレたちひょうきん族」


さて、いよいよ、ここからが今回の本題である。

そんな風に、土8戦争において『全員集合』の長期政権が続く中、フジテレビは三度、この王者に戦いを挑む。時に、1981年5月16日―― 特番としてスタートし、同年10月からレギュラー番組に昇格した『オレたちひょうきん族』である。

ご存知、時のスター、ビートたけしサンを筆頭に、前年(1980年)の漫才ブームでブレイクした漫才コンビをシャッフルして起用した異色のバラエティ番組。その笑いの根底にあるのは、アドリブ重視の姿勢であり、それはかつての欽ちゃんの路線を彷彿させるものだった。また、構成作家として起用されたのは、大岩賞介、詩村博史、永井準、鶴間政行、大倉利晴ら、パジャマ党の面々。即ち―― 欽ちゃんのブレーン集団である。ある意味、それはカタチを変えた欽ちゃんのリベンジでもあった。思えば、たけしサン自身、浅草・フランス座で修業を積んだ身。欽ちゃんの後輩だった。

とはいえ、制作陣は、かつて辣腕を振るったおトキさんは役職を嫌って退職、既にフリープロデューサーとなっており、代わって当時のフジのバラエティを担っていたのが、横澤彪プロデューサーだった。そして彼の下に、いわゆる “横澤班” の5人のディレクターが集った。三宅恵介、佐藤義和、荻野繁、山縣慎司、永峰明―― のちの “ひょうきんディレクターズ” である。5人とも、かつてフジの子会社の制作会社に入社し、1980年の鹿内春雄副社長の元に行われた機構改革に伴い、本体のフジテレビへ転籍した人たち。皆、やる気に燃えており、そのエネルギーが、いいカタチで芸人たちと結びついて生まれたのが『ひょうきん族』だった。

 竹の子族より派手に、ロックンロール族よりツッパる。
 クリスタル族なんてまるで無視して地球にやってきた、
 オレたちひょうきん族――

同番組は、そんな伊武雅刀サンによる “スネークマンショー” 的ナレーションから始まる。バックにかかる音楽は、ロッシーニ作曲『歌劇「ウィリアム・テル」序曲第4部「スイス軍隊の行進(終曲)」』である。見るからにインテリの匂いがする。そう、『全員集合』が小学生をメインターゲットに置いたのに対し、『ひょうきん族』は明らかに中高大学生を対象に笑いを仕掛けた。すべて、横澤プロデューサーの戦略である。

2つに分けられる日本のバラエティ番組の歴史


俗に、日本のバラエティ番組の歴史は、2つに分けられると言われる。『ひょうきん』以前と、以後である。

『ひょうきん族』の何が革命的だったかというと、看板コーナーの「タケちゃんマン」は、大まかなストーリーはありつつも、見せ場のビートたけしサン演じるタケちゃんマンと、明石家さんまサン演じる敵役との対決シーンは、ほぼアドリブだったんですね。それも、いわゆる楽屋オチと呼ばれる、芸人仲間やスタッフらとの内輪話がほとんど。でも――それがめちゃくちゃ面白かった。いわゆる“フリートーク”がテレビのゴールデンタイムのメインの見せもの(商品)になったのは、同番組が初めてだった。

『ひょうきん族』は瞬く間に若者たちの支持を集めた。間もなく、それは数字となって表れる。裏番組の王者『全員集合』をじわじわと視聴率で追い詰め始めたのだ。当初は『全員集合』が30%台、『ひょうきん族』が10%そこそこと、両番組はトリプルスコアの差があった。それが対決2年目の1982年になると、みるみる接近。遂に同年10月9日――『ひょうきん族』が『全員集合』を逆転する(出典:『笑芸人VOL.1』監修・高田文夫 白夜書房)。

そこから1983年にかけては、しばらく一進一退の攻防が続くが、1984年になると形勢は完全に『ひょうきん族』優勢へ。そして1985年9月28日――『全員集合』は16年間もの王者の歴史に幕を下ろしたのである。

お茶の間が求めた笑いとは?


なぜ、『ひょうきん族』は『全員集合』に勝てたのか。――“フリートーク”だ。要は80年代に至り、お茶の間が予定調和の台本の笑いより、非予定調和―― アドリブ重視の笑いを求めるようになったんです。欽ちゃんの時代にはもう一つハネなかった “生の笑い” の世界に、ようやく世間が追い付いたのだ。実際、さんまサンはある番組で、当時の『ひょうきん族』の収録の様子について、こう述べている。

「1日撮るわけですよ。朝の10時くらいから夜中のてっぺん(深夜0時)まで。何時間もカメラを回して、使うのが24分やからな。そういう戦い」

―― まぁ、それだけカメラを回して、エッセンスを抽出すれば、面白くなるワケである。そして、この『ひょうきん族』の制作手法―― 長時間カメラを回して、芸人にアドリブで自由に喋らせ、編集で面白いシーンを抽出する手法は、今やバラエティ番組を作る際のスタンダードになっている。スタジオ収録であろうと、ロケであろうと、それは変わらない。今や業界用語の「撮れ高」がネタにされ、視聴者に理解される時代である。

これぞ黄金の6年間! 芸人たちのクロスオーバー「オレたちひょうきん族」


思えば、『ひょうきん族』の成功は、“黄金の6年間” の時代の賜物だった(指南役・著『黄金の6年間 1978-1983 ~ 素晴らしきエンタメ青春時代』好評発売中)。1980年のフジテレビの機構改革で、系列の制作プロダクションの若手社員らが本体へ転籍。いわゆる “大制作局” が生まれた結果、上司や先輩のいない(フジテレビは10年間、制作の人間を採用していなかった)彼らは、自由に、やりたいように番組を作れたからである。

出演する芸人たちは、漫才コンビをバラして、シャッフルすることで、立ち位置が自由になった。いわゆる芸人間の “クロスオーバー” である。その結果、「タケちゃんマン」ではビートたけしと明石家さんまという稀代の名コンビが生まれ、また、漫才コンビで目立たない側(『アメトーーク!』風に言えば、「○○じゃない方」芸人)を集めた結果、「うなずきトリオ」が結成され、大人気となった。

『ひょうきん族』はインテリからも好まれた。「ひょうきんベストテン」のコーナーには、本家の『ザ・ベストテン』にはあまり出演したがらないYMOやユーミンも自らの意思で出演してくれた。エンディング曲は、作詞・伊藤銀次、作曲・山下達郎の「DOWN TOWN」をEPOが歌った。

最後に、『ひょうきん族』の伝説の回を紹介して、このコラムを終えたいと思う。それは、1988年8月27日―― 放送300回を記念してオンエアされた「ひょうきん族だョ!全員集合」である。杉並公会堂で実際にお客を入れて公開収録された同企画は、往年の『全員集合』のフォーマットを、セットから音楽からカメラアングルまで、完璧にトレースした前代未聞の内容だった。教室コントに合唱隊と体操と、徹底したパロディぶりが秀逸だった。それは明らかに、かつてのライバルへの思い――“リスペクト” を体現したものだった。

同番組が幕を下ろすのは、その1年2ヶ月後のことである。


参考文献
『笑芸人VOL.1』監修・高田文夫 白夜書房

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2022.04.19
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カタリベ
1967年生まれ
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