『1984年の伊藤銀次「BEAT CITY」 L.A.レコーディング事情 ~ その1』からのつづき伝説のプロモーター、永島達司の忘れられない一言
1984年のアルバム『BEAT CITY』のレコーディングのための、新しい機材によるワクワクの曲作りも終わり、なんとか曲も揃ったところで、いよいよロサンゼルスへ向かう直前に、今回のL.A.レコーディングをいろいろとコーディネイトしてくださった大洋音楽のボス、永島達司さんにお礼のご挨拶をしていこうとなった。
「えっ!? 永島達司さん!? まさか… あの!?」
そうなのだ。1966年に、たった1度だけの来日を果たしたザ・ビートルズを、あのとき日本に呼んだ伝説のプロモーター、永島達司さんその人なのだ!!
いやぁ、そんなすごい人と会えるなんて、それはそれは恐れ多くてとても緊張したけれど、初めて会った永島さんはとても包容力のある、どこか日本人離れしたフランクな佇まいで僕を暖かく迎えてくださったので、ほんとにありがたくて、それはそれはもう大感激でした。
まさに “ジェントルマン” という言葉がぴったり! よく響く低い声での落ち着いた話し方にとても説得力があった。
もうかなり昔のことで、なんのお話をしたのか細かいことは覚えていないけれど、なぜか一言だけ忘れられないフレーズが。
「銀次君、ロスへ行ったらまずハーゲンダッツを食べるといいよ。とってもうまいから」
その頃は、まだ日本にアイスクリームのハーゲンダッツが入ってきてなかったので親切に教えてくださったのだろうが、そのときの永島さんの「ハーゲンダッツ」の発音がとってもネイティブスピーカーっぽいきれいな発音で、忘れられない響きとなって耳に残った。
永島さんは甘党だったんだろうか? その大人な雰囲気から予想できない無邪気な発言に、僕はきっと彼も “アダルト・キッズ” のひとりにちがいないと、その時以来勝手に思っている。
ロスの雰囲気がなせる技? 大好きになったキャット・スティーヴンス
永島さんとのミーティングでいい気分になって、いよいよ4月末にロスへ出発。到着したロサンゼルスは、夏からはじまるオリンピックもあってか健康ブームだったね。
僕のL.A.レコーディングは4月30日から5月20日までのほぼ1ヶ月。滞在はホテルではなくて、ドジャー・スタジアムの近くの一軒家。そこはアルマンド・ギャロさんという写真家のお家。ギャロさんが、ヨーロッパに仕事で行っている間、空き家になるのでどうか使って下さい… と、特別に提供してくださったとのこと。このスペイン風のお家がとてもステキで、レコーディングの緊張感をどれほどほぐしてくれたことか。
僕の泊まった部屋は彼のレコード室でもあって、そこにあるレコードは自由に聴いてもいいとのこと。詞を書いたりするときにいろんな曲を聞くことができたおかげでイメージをふくらませることができた。
おもしろいことに、大好きないつもの洋楽が東京で聴いた時と全然違って聴こえた。これはやっぱりロスの雰囲気がなせる技か。特にキャット・スティーヴンスの「雨にぬれた朝(Morning Has Broken)」は、それまでそんなにお気に入りでもなかったのにロスの空気感のおかげか、それ以来すっかりマイ・フェヴァリット・ソングになってしまったよ。
ハル・デヴィッドゆかりの「ワン・オン・ワン・スタジオ」で録音
レコーディングが行われるスタジオはノース・ハリウッドにある「ワン・オン・ワン・スタジオ」。いよいよ明日からリズム録りが始まるというその前日、僕と日本から同行したエンジニアの井口進さんと、今回のキーボード奏者でマニュピレーターでもある国吉良一さんとスタッフと共に、東京から持ってきたマスターテープを持ってスタジオに下見に出掛けた。
まだ新しい、とても綺麗で機能的なスタジオでいい感じ。「おお、いよいよだな!」とスタジオの中を散策してるとグランドピアノの譜面立てになんとバート・バカラックのソングブックが見開いておいてあるではないか!
なぜなんだろう… と、そのスタジオのハウス・エンジニアに聞いてみると、このスタジオのオーナーは、バカラックとコンビを組んで数々のヒットを生み出してきた作詞家、ハル・デヴィッドの息子さんのジム・デヴィッドさんだという。
いやぁ、さすがロサンゼルス! 明日からのセッションに参加してくれるギタリストのマーク・ゴールデンバーグのバンド、クリトーンズのべーシストのピーター・バーンスタインが、あのエルマー・バーンスタインの息子だったりするように、彼のような2世はきっとごろごろいるんだろうな。
大尊敬しているハル・デヴィッドの息子さんのスタジオでレコーディングできるなんてまったく想定外、そしてとっても光栄でした。
後にYOSHIKIが買い取った「エクスタシー・スタジオ」
ちなみにこのスタジオは、なんと90年代に、X JAPANのYOSHIKIが買い取って、「エクスタシー・レコーディング・スタジオ」と名前を変え、彼のプライベートスタジオとして使ってたようで、その不思議な時の流れにちょっと驚き。もちろん、この1984年にはそんな未来は思い描くこともできなかったのは当然のことだけど。
ジム・デヴィッドさんと挨拶を丁重に交わして、マスターテープをエンジニアに手渡し、その日は宿泊先へ戻って、明日からのリズムセッションのための譜面書きと頭の整理を。
こうして、わくわくしながら翌日を待つわけだが、まさかそのレコーディングのしょっぱなに、一瞬お先真っ暗になる “あんなこと” が起きるとはこの時点ではまったく思いもよらなかった銀次なのでした。
“あんなこと” については、次回
『1984年の伊藤銀次「BEAT CITY」 L.A.レコーディング事情 ~ その3』で詳しくご紹介しますので、どうぞお楽しみに!
To be continued
2020.07.21