3月25日

死と再生の「二人静」中森明菜が終わり、中森明菜がはじまる

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中森明菜のシングル「二人静 -「天河伝説殺人事件」より」がリリースされた日
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photo:Warner Music Japan  

中森明菜ロス? 1991年、あるレコードショップの光景


当時新曲の工藤静香「Please」のチェックをしていた時だったから、ちょうど今から31年前の1991年5月だったと思う。埼玉の郊外の小さなレコードショップ、40代なかばとおぼしき中年男性が、棚差ししてある中森明菜のCDの背表紙に何度も指をすべらせると、レジに振り返った。

「中森明菜の新しいアルバムって、まだ出ない?」
店員は嘆息して答える。
「情報は入っていないですねぇ、シングルなら「二人静」がありますが……」
「それは、持ってるからなぁ……」

「二人静」は今月のヒット曲のコーナーにあった。中年男性氏は、少し迷って、先ほど指を走らせていた中から、中森明菜の『Wonder』を取り出して、レジに出す。3年前のアルバムだ。

「じゃあ、これ。情報入ったら、教えてよね」

中学生だった私は、隣でその光景を見ていて思った。―― こんな自分の父親ほどの年齢の、平凡で普通の男性が、中森明菜のこと、好きなんだ。3年前のアルバムをふらっと買うからそんなに熱心なファンではないけど、この人も、中森明菜が歌が好きで、彼女の歌を待っているんだ、と。

あの頃――。2年前の “事件” 以来、活動が順調に進まない中森明菜に対して、心配だ、残念だ、悲しい、応援したいと心を寄せた人の数を数えたらいったいどれほどになるだろう。

テレビの画面の中で、毎日のように圧倒的な歌唱パフォーマンスと無邪気な笑顔を振りまいていた中森明菜の姿が突然消え、「中森明菜・待望論」が歌謡界全体、日本全体に漂っていたように感じたのはファンのひいき目だろうか。それほど中森明菜の歌と存在は、日本中に浸透し、その喪失感は多大なものであったと感ずる。

シングル「二人静」にみる、明菜プロジェクト瓦解の証明


随分昔の話になるが、中森明菜のベストアルバム『Best Finger』のライナーノートを書かせていただいた時に、「二人静」のディレクションを務めた川原伸司氏(以下敬称略)にお会いすることができた。その時に伺ったことがある。

「「二人静」のカップリングの「忘れて…」は羽佐間健二名義で作曲されていますけど、どういった経緯であの曲はできたのですか」

彼はこう回答した。

「もともと作るつもりはなかったんだけれども、明菜用のストックの曲が何もなかったので、急遽作ったんだ」

なるほど、彼のもとには、あの曲たちは届いてなかったんだ……。

この時期、中森明菜のお蔵入り楽曲としてファンの間で語り継がれているものに大きく2つある。ひとつが『ニッポンの編曲家』(2016年 ディスクユニオン刊)において、椎名和夫が中森明菜の新曲として自ら編曲したと語った「1989年、TOTOのマイク・ポーカロとカルロス・ヴェガを迎えて録音した2曲」。

もうひとつが1990年秋、『Gazer』のアルバム名でリリース予定だった楽曲群である。収録予定曲だった「Gaze」、「Ever」は作詞した許瑛子のブログで紹介もされている。これらの楽曲の存在を、川原伸司は知らなかったということになる。

そもそも、なぜ当時ワーナー・パイオニアに所属していない川原伸司が、中森明菜の「二人静」のディレクションを担当したのか。

「関口誠人くんのバージョンの「天河伝説殺人事件」を(作詞を担当した)松本隆と一緒に聞いていた時に、「これ、中森明菜にぴったりじゃない?」と盛り上がって、本人に直接アプローチしてみたら、快諾してくれたんだよね」と(松本隆と川原伸司が盟友関係であるのは、いまさら述べるまでもない)。

ダイレクトにアプローチしてみたら、アーティスト的直感で明菜がオファーを引き受けた。流れでディクションも行ったということらしい。それは「難破船」の時とかなり近しい展開ともいえるが、「難破船」の時のディレクションはワーナー・パイオニアの中森明菜担当の藤倉克己である。

なぜ川原伸司は、楽曲の橋渡しをしたあとにワーナー側に制作の下駄を預けなかったのか。なぜワーナー側は、制作されたもののペンディングとなった明菜用の楽曲を彼に引き継ぎしなかったのか。30年以上前のことなので、理由はわからない。

ただひとつ確かにいえることは、「AL-MAUJ」回(苛烈を極めた中森明菜の曲選考、敗者復活した異例のシングル「アルマージ」参照)で私が紹介したような、「中森明菜」という巨大プロジェクトは、すでにこのとき(少なくともワーナー・パイオニア内では)瓦解していた、ということである。

1989年の “事件” は、中森明菜の心身だけではなく、彼女を取り巻くすべてを崩壊させてしまったのだろう。思えば、「二人静」も、前作「水に挿した花」も、レコードショップや雑誌をはじめとした各種媒体での告知がしっかりなされない状況での、緊急的なリリースであった。

死と妖気を放つ異形の “桜ソング”


曲の内容に話を移す。

「二人静」の楽曲として特筆すべき点は、“異形の桜ソング” であることだ。

森山直太朗の「さくら(独唱)」、福山雅治の「桜坂」を契機として2000年代に巻き起こった「桜ソングブーム」、3月の卒業シーズンに当て込んだそれらの多くが “春=別れの季節” をテーマとした、センチメンタルで誰の耳にもなじみみやすい楽曲である。

しかし、3月にリリースされ、歌詞も歌い始めが「散り急ぐ花びら」で、サビの一番決めるところに「夜桜が騒ぐ」とあり、歌番組でも桜吹雪のなか、あるいは桜の振袖をまとって歌うなど、桜のイメージが明確に押し出された「二人静」だが、この曲はこれまでの、またこれ以降の “桜ソング” とは明確に違う。この曲には “死と妖気” が漂っているのだ。

中森明菜が般若の面を片手にしている「二人静」のジャケット写真、クローズアップなのでこれだけではわからないが、ポスターやファンクラブなどで公開された別ショットを見ると中森明菜は白装束を左前に着ていることがわかる。これは言うまでもない “死装束” だ。

柳田国男は「枝垂れ桜が植えられた場所は死者を祀る場所である」と民俗学的見地から直観した。また梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と叫んだ。

桜は、エロスのメタファーであり、またタナトスのメタファーでもある。

冷たい虚空にはらはらと散るはなびら、花見の人だかりでは感じないかもしれない、しかし、しんと静まり返って誰もそこにいない、ぽっかりと時間が止まったような空間に咲き乱れる桜の姿に、そら恐ろしいものを感じたことがある人は少なくないのではなかろうか。

「二人静」を作詞した松本隆は、特に坂口安吾「桜の森の満開の下」のイメージを援用しているように感じる。この小説において、サロメのごとく「首遊び」に興じる山賊の女は狂女であり、男を魅了してやまぬ魔性であり、桜の精霊である。

「きっと愛しすぎたから…」

中森明菜が静かにつぶやいて、歌を滑り出す時、桜吹雪の向こうに異界が生まれる。

ここでひとつ、思い出す言葉がある。川原伸司がその雑談の中でふとこぼした言葉だ。

「(「二人静」には)一度本気で死を覚悟したことのある人でなければ出せない迫力があると思うんだよね」

「二人静」の世界はフィクションである。そして、中森明菜はフィクションを歌う名手である、しかし時にそのフィクションがノンフィクションと交差する。それが彼女の表現者としての凄みでもあり、悲しみでもある。

90年代の中森明菜、はじまる




オリコン週間最高第3位、オリコン年間第21位、売上48.4万枚。活動がままならぬ状況においても「二人静」は大ヒットを遂げた。しかしこれ以降、中森明菜は特大級のヒットシングルをリリースすることはなかった。そしてこのシングルをもって、デビュー以来の所属レコード会社であったワーナー・パイオニアからも移籍する。

「少女A」からはじまった、日本中を席巻し、多くの人々を魅了した、歌謡界の妖しき巫女であり、巨大な魔物であった80年代の中森明菜の道のりはここがゴールといって差し支えないだろう。

しかし、中森明菜の歌手としての道のりはここで終わらない。キーマンは、この「二人静」のディレクター川原伸司だ。

1993年の4年ぶりのアルバム『UNBALANC+EBALANCE』、続いて1994年の初のカバーアルバム『歌姫』、これは川原伸司のディレクションによるものだ。「二人静」で中森明菜の稀有な才能に惚れ込んだ彼は、ディレクションを続けて引き受け、彼との共同制作によるカバーアルバムの『歌姫』シリーズは後に中森明菜のキラーコンテンツのひとつに成長していく。

そして、テレビカメラの向こうに存在する数多の聴衆に向けて圧倒的なパワーを放出していた彼女は、自らの心奥に問いかけるような歌唱スタイルへと変貌していく。これが90年代の中森明菜だ。

誰の眼にもつく、活発な活動とは言えないかもしれない。しかし、中森明菜が中森明菜でい続けるために必要な変化だったのだろうと、今振り返ると感じる。

収まらぬオマージュ、中森明菜は、いまもそこにいる


そして31年の時が過ぎた。あの時の街の小さなレコードショップはとうに潰れてしまった。そしてわたしはあの時の中年男性と同じような年齢になってしまった。

なのに31年前と変わらず、今でもわたしは中森明菜を聞いている。おそらくこの文章を読んでいるあなたもまた、そうではなかろうか。

2017年年末以来、中森明菜は何度目かの活動休止期間を迎えている。しかし中森明菜へのオマージュは収まらない。むしろその声は年々大きくなっている。

若い世代が、中森明菜を発見し虜となる、そんなこともSNSでよくある風景となった。

31年前のあの頃のように、いやそれ以上に、2022年の現在、多くの人が中森明菜を愛し、想いを寄せ、彼女と再び相まみえることを待ち望んでいる。

このような30年以上前の全てのシングルをつぶさに語るという企画が持ちあがるそれ自体が、現在のわたし達の彼女への熱望の何よりの証明だ。

“中森明菜” という存在はすでに時代を超越したイコンとなったといっていいだろう。

中森明菜が今後どのような活動をするのか、あるいはしないのか、それはわからない。ただひとついえることは、わたし達が動画サイトやサブスクリプションサービスの向こうにいる中森明菜に魅了される時、時間という軸は霧散し、中森明菜は、いまもなお、そこにいるのだと、圧倒的な魅力を放ち、輝いているのだと思わずにはいられない、それだけである。


※2021年5月28日に掲載された記事をアップデート

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2022.06.18
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