2022年 12月21日

中森明菜と島田雄三の結晶「スローモーション」から 「ミ・アモーレ」までの宝石たち

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中森明菜のベストアルバム「Singles~1981-85 中森明菜11 Great Hit Singles +6 by Yuzo Shimada」がリリースされた日
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スター誕生で「夢先案内人」を歌う中森明菜


先日、リマインダーの企画にて明菜さんのディレクターだった島田雄三さんに直接お話を伺う機会に恵まれた。お伺いして感じたことは、島田さんたちは明菜さんをアーティストとして、ひとりの人間として、真摯に向き合い、大事にしていたということ。具体的にどのように大事にしていたかはポッドキャストを聴いていただくとして、周りの方々が、歌手としての中森明菜さんを育てていこうという気概が溢れていた。そう感じたのだ。

わたしの明菜さんとの “出会い” は1981年夏。『スター誕生』での本選392点をたたき出したデビュー前の中森明菜さんが「夢先案内人」を歌う姿を、わたしはテレビで観ていた。

ああ、こんなすごい人が同年代で出てくるんだな。

世の中に数多いた、歌手をほのかに夢見る同世代の少女のひとりだった15歳のわたしは、彼女のパフォーマンスを見て、各種オーディションへの応募をあきらめた。



1982年デビューの女性アイドルのなかでもとびきり“かっこいい”存在


1982年5月1日、明菜さんはプロの歌手としてデビューした。『スター誕生』のワンコーナーで「スローモーション」を唄っていたのを見たのが、歌手としての明菜さんをはじめてみた瞬間だった。

あのときの彼女だ!

あらためてテレビで見て、センスのいい、アイドルらしからぬ大人っぽい歌でデビューしたな、という印象を受けた。「スローモーション」はその後ラジオで聴きエアチェックして、何度となく聴いた。歌も良いのだがそのオケに、具体的には「♪出会いはスローモーション」のところで入る細かいピアノやサックスが、あぁいいな―― と思ったのだ。



中森明菜さんは、いま思うと、1982年デビューの女性アイドルのなかでもとびきり “かっこいい” 存在だった。いわゆる82年組では松本伊代、小泉今日子、三田寛子が同学年。早見優、堀ちえみ、石川秀美は1学年下。1つ年上が薬師丸ひろ子。もう少しお姉さんだと伊藤さやか、北原佐和子、といったところ。

1982年に女子高生だった同年代の女子としては、当時の女性アイドルは正直なところ真似る対象ではなかった。髪型なども、聖子ちゃんカットは真似たが、パーマもカールも禁止の校則下では、もっさりした段カットになるのがせいぜいだった。だが、明菜さんは違った。憧れの対象になりえたのだ。エレガントなロングヘアは外国の美人女優を思わせる、少し真似てみたい存在だった。衣装もどんどん洗練されていった。島田さんによると、髪型や衣装等には口を挟まず、明菜さんに任せていたという。ビジュアル面という部分では、明菜さんがリードを取っていたと考えていい。

楽曲も、デビュー当時から少し大人っぽい歌だったが、次第にどんどんカッコいい大人の女性を意識させる歌になっていった。「(明菜さんを)アイドルの枠に収めず、そこから飛び出してターゲットを広げたかった」というディレクターの島田さんの意向が花開いた形だ。

いい楽曲を一曲でもください、と曲を集め、楽曲重視で選曲し、レコーディングまでに明菜さんと丁寧な事前打ち合わせを重ねて制作していたという島田さんの言葉は、シングルもさることながら、アルバムを聴いているとより鮮明に響く。楽曲の選択は島田さんサイドで行われていたとのことだが、カッコイイ大人の女性になっていきたいというのは明菜さん本人の志向でもあったのだろうと考える。

他の女性アイドルが向いている方向は、主に若い男の子たちだった。もちろん明菜さんも若い男の子たちをメインターゲットにしていたのだろうが、アイドルの枠に収まらない、ひとりの若い女性歌手として、彼女の歌にはリアリティと存在感があった。

歌手としての存在感という意味でいうと、明菜さんの楽曲が、スナックで唄える歌だったというのも大きい。カラオケのデバイスがまだ8トラックのカートリッジだった1984年頃、わたしはスナックのカラオケで「セカンド・ラブ」を歌っていた。その頃のカラオケスナックでは、もう少し年齢層の高い歌(テレサ・テンさんの「つぐない」や、高橋真梨子さんの「桃色吐息」、大橋純子さんの「シルエット・ロマンス」あたり)が主流だったが、そこに若いOLやアルバイトのわたしたちが歌える「セカンド・ラブ」があったというのも、明菜さんと他の女性アイドルとの違いだった。



島田雄三セレクト「Singles〜1981-85 11 Great Hit Singles+6 by Yuzo Shimada」


『Singles〜1981-85 11 Great Hit Singles+6 by Yuzo Shimada』は島田雄三さんがディレクターとして関与した時期のシングルと、オリジナルアルバムから1曲ずつ選曲されている。それぞれ島田さんの思い入れがある楽曲なのだろう。

シングル以外の島田さんのセレクトからの注目は、1983年3月発売のアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉』A面1曲目に収録の「明菜から…」をあげたい。

当時『ファンタジー〈幻想曲〉』に針を落とした明菜さんのファンは、嬉しさと同時に驚きを隠せなかったのではなかろうか。優しく語り掛ける明菜さんの声を聴いていて、そろそろ歌に入るのかな…? と思わせながら、語りだけで終わってしまうという、ある種のじらしプレイだ。リマインダーの『ファンタジー〈幻想曲〉』に関するコラムでも「セラピーのよう」とチャッピー加藤さんが記している(『中森明菜「ファンタジー〈幻想曲〉」痛みを引き受け、分かち合い、癒してくれる歌』を参照)。

この、ナレーションのみの楽曲のきっかけは、1982年12月リリースのミニアルバム『Seventeen』の制作時、まだ曲数が少ないのを補うために明菜さんのナレーションを入れたところ、意外と喋れることが判明し、だったら喋らせてみよう、というアイデアだったという。

もうひとつあげると、1984年5月発売の『ANNIVERSARY』収録の「メランコリー・フェスタ」。最後の “Ah~” の伸びやかで力強いロングトーンは、ヴォーカリストとしての明菜さんの素晴らしさを際立たせている。

スターの原石だった明菜さんを綺麗に磨いて、キラキラ輝く宝石にした。そんな磨き職人の方が選んだ、5年間の作品集。これから中森明菜さんを聴いてみようという未来のファンたちにも、きっといいゲートウェイになるだろう。



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2022.12.21
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