「俺という存在がありながら、なぜ今さらブッチャーが必要なのか?」
新日を長年にわたって支えてきてやった大スターである俺をないがしろにするような新日プロが、俺は信用できなくなっていた。
そもそも、俺はあの豚野郎が大キライだ。ファンに媚びやがって! リング外では “いい人” を演じてるから、子どもにも人気がある。でも、俺はプロフェッショナルだ。伊勢丹での襲撃事件のように、リングの外でもヒール(悪役)を貫いてきた。
こんなこともあった。遠征先でブッチャーと相部屋だったとき、朝、俺が起きる前に、ヤツは宿泊費を払わないでホテルを出ていきやがった。なんてセコい野郎だ。あんな半端野郎は好きになれない。そう、俺は希代の天才ヒール “タイガー・ジェット・シン様” だ。
古い話に戻そう。トップヒールとなった俺は、1974年6月20日、当時NWF王者だった猪木とタイトルマッチに臨んだ。俺たちの遺恨はピークに達していた。この試合で俺は猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛け、さらにサーベルで滅多打ちにしてやった。反則負けとなったもののヤツを負傷させ十分な戦果を上げた。俺の圧倒的な強さに全国のプロレスファンが震え上がった瞬間だ。
そして、6月26日の60分3本勝負。1本目は反則攻撃で予定通り猪木を大流血に追い込んでやった。だが2本目は油断した。1本目で流血した猪木の怒りは凄まじく、ヤツは俺の右腕に狙いを絞り鉄柱攻撃やアームブリーカーなどをしかけてきやがった。
この程度の攻撃では俺を黙らせることはできないが、猪木も必死だったのだろう。最後には俺の右腕が骨折してしまいドクターストップ。さすがに骨折していては試合を続けられない。猪木のファンは大いに留飲が下がっただろうよ。俺は参っちゃいないけどねぇ…
この連戦によって、新日本プロレスへの注目度は劇的に向上した。そして、その人気は他団体を圧倒し始めていた。俺の新日への貢献度は絶大だったはずだ。
ところが1981年になると、俺を激怒させる出来ごとが起こった。なんと、当時全日本プロレスを主戦場としていたアブドーラ・ザ・ブッチャーが、新日本に引き抜かれてきやがったのだ。
俺は新日にさっさと見切りをつけ、全日本プロレスに参戦することにした。7月3日に全日の試合に初めて乱入した(やっぱりヒールは乱入じゃないとな)。翌日からは正式に参戦し、俺の実力を全日ファンに見せつけることになった。
俺はブッチャーとは違い、リング上ではスピーディだ。それにテクニックもある。得意のコブラクローや首四の字固め、そして猪木からギブアップを奪ったこともあるアルゼンチン・バックブリーカー。カウンターのトーキックやブレーンバスターには、相手レスラーがビビッていたのがよく分かった。
凶器攻撃以外、エルボードロップと地獄突きしかない野郎とは大違いだぜ。
1983年7月26日には、上田馬之助と組んで、馬場&鶴田のエースコンビからインターナショナル・タッグ王座も奪取した。ちょっと俺が実力を出せば、こんなもんだ。
そんな俺だからこそ、全日のリングでもトップになれるはずだった。しかし、あとから移籍してきたスタン・ハンセンが台頭し、あまりいいポジションは与えられなかった。
この頃の俺の入場曲は、「吹けよ風、呼べよ嵐」。不気味なベースが鳴り響くのが印象的なピンク・フロイドの曲だが、これは、ブッチャーの入場でも使われていた。全日においては、この曲が「凶悪レスラーの入場曲」という位置づけであり、誰のテーマ曲とは決まっていなかったためだ。ちなみに、ザ・シークもこの曲だったらしい。
大キライな野郎と同じ曲を使われては、トップレスラーである俺のプライドはズタズタだ。スモウレスラー上がりの輪島大士のデビュー戦の相手をさせられたり、出戻ってきたブッチャーと組まされたりしたこともある。こうなったら全日には用はない。
おさらばだ。
「吹けよ風、呼べよ嵐」
アルバム『おせっかい(Meddle)』収録
発売日:1971年10月30日
2017.09.15
YouTube / ThePinkFloydHD
YouTube / NECTARINEBED
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