7月21日

長州力はテクノの名曲「パワーホール」プロレスラーの入場曲はいつから始まった?

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長州力のシングル「明日の誓い」がリリースされた日(パワーホール 収録)
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古希を迎えた革命戦士、長州力


面白いおじさんがいる。

キレ気味に言う口ぐせ「キレてないですよ」は、もはや本人から独り歩きして、モノマネの定番として拡散。千鳥がMCのテレビ番組『相席食堂』(ABCテレビ)に出演した際は、北海道でホタテ貝柱を口にして「食ってみな? 飛ぶぞ!」と伝説の食レポを残した。Twitterを始めると、ハッシュタグ(♯)を「ハッシュドタグ」とまるで料理名のように誤表記して、2時間で50万もの「いいね」を集めた。

おじさんの名は長州力。今でこそ、そのトボけた言動でメディアを横断して引っ張り凧の面白おじさんだが、かつては「革命戦士」のニックネームで四角いジャングルを暴れまわり、時代の寵児と化したプロレスラーだった。

今日、12月3日は、そんな長州力サンの70歳の誕生日。かつての革命戦士が記念すべき「古希」を迎えた日にあたる。

インパクトと世界観を観客に植え付けた入場曲「パワーホール」


さて―― リマインダーとして長州サンを取り上げるとなれば、やはり80年代にプロレス界で大暴れした彼のアイコンの1つである入場曲「パワーホール」を置いては語れないだろう。

それは、新日本プロレスを舞台に、アントニオ猪木や藤波辰巳らを相手に、長髪を振り乱して、パワーとスピードで圧倒した彼の格闘スタイル“ハイスパート・レスリング”を象徴するものだった。「パワーホール」と共に、彼が入場口から姿を現すと、場内は一瞬にして緊張感に包まれ、“長州劇場”と化した。

短いドラムの前奏(わずか1秒!)から、いきなりのトップモード。キャッチーなシンセサイザーの音色が場内に響き渡る。まるでYMOのようなテクノポップだ。基本的には、わずか3音からなる2つの旋律が延々繰り返されるシンプルな曲構成だが、プロレスの入場はせいぜい30秒。インパクトと世界観を観客に植え付けるには、それで十分だった。

作曲は平沢進、耳に残る名曲「パワーホール」


この珠玉のインストゥルメンタルを作ったのは、平沢進サン。知る人ぞ知る、日本のプログレッシブロックの開拓者であり、その後、テクノからニューウェーブと、常に時代に先駆けたスタイルで音楽を生み出し続ける “師匠” である。

ところが、この師匠―― 有名な話だが、プロレスにまるで興味がなかった。しかも、曲のオーダーがあった1980年夏は、当の長州力選手もまだブレイク前。一般的な知名度は低かった(有名な「かませ犬」発言は1982年10月8日。この2年後である)。当時、師匠は食べるためにCMソングなどの営業の仕事も受けており、先方からの「YMOのような楽曲で」というオーダーに従い、ペンネーム “異母犯抄” 名義で、ほんの軽い気持ちで作って納品したという。

そんな経緯もあり、楽曲は “著作権買い取り” の契約だった。「およげ!たいやきくん」の子門真人と同じである。つまり、納品したらおしまい。その先、いくらレコードが売れようが、会場でかけられようが、テレビで全国に流されようが―― 1円も印税は入らない。

後年、師匠はTwitterで “業界新人として著作権に無知だったがために大金を不意にしてしまった。それがなければ私は金持ちになっていたはず。皆さん著作権はめったに他人に管理させてはいけない” と、愚痴をこぼしている。

しかし、改めて今聴いても、耳に残る名曲である。プロレスラーの入場曲は数あれど、特にプロレスに興味がない(僕自身、プロレスはほとんど一般人の知識しかない)人も知っている楽曲は、アントニオ猪木の「炎のファイター」とミル・マスカラスの「スカイ・ハイ」、そして長州力の「パワーホール」くらいである。師匠が愚痴を言いたくなるのも分かる(笑)。めちゃくちゃ名曲なのだ。

プロレス入場曲のキッカケは「スカイ・ハイ」そして「炎のファイター」へ


そう―― 思えば、プロレスの入場曲というものを僕らが初めて意識したのは、1977年のミル・マスカラスの来日と共に上陸した、かのイギリスのバンド、ジグソーによるディスコミュージック「スカイ・ハイ」だった。

実は、「スカイ・ハイ」自体は1975年のリリースで、アメリカではビルボードの3位に入るヒットを記録したが、日本では当時ほとんど話題にならなかった。しかし、その後もディスコミュージックとして地味に全国のディスコでかけられるうち、ある日、それを耳にした全日本プロレス中継担当の日本テレビのディレクターが「ミル・マスカラスのイメージにピッタリ!」と閃き、入場曲として使用したところ―― マスカラス人気と共に、大ヒット。1977年のオリコン洋楽チャートで11週連続1位を記録し、総合部門でも最高2位(ちなみに、その時の1位はピンク・レディーの「カルメン'77」)になった。

プロレスラーに入場曲が付くようになったのは、この「スカイ・ハイ」がキッカケである。いち早く、その潮流を嗅ぎ取り、動いたのが新日本プロレスのアントニオ猪木だった。1977年6月、モハメド・アリの結婚式に招かれた猪木(両者はこの1年前に武道館で「格闘技世界一決定戦」を戦った“戦友”である)はアリに直談判、そしてプレゼントされたのが、かのアリの自伝映画に使われた「アリ・ボンバイエ」だった。後の「炎のファイター」である。

ザ・ファンクス、藤波辰巳そして長州力、個性に応じたオリジナル入場曲


更に同年暮れ、全日本プロレスは二匹目のドジョウを狙い、人気上昇中の兄弟タッグ、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク)の入場曲に、クリエイションの「スピニング・トー・ホールド」を起用する。同曲は、リーダーの竹田和夫サンがプロレスファンだったことから作られた楽曲で、タイトルを同じく必殺技とするザ・ファンクスの入場曲に相応しいのでは―― という視聴者の投書がキッカケだったという。結果は、ファンクス人気と共に、曲もスマッシュヒット――。

そして1978年には、ジュニア・ヘビー級王者として、新日本プロレスの藤波辰巳選手が凱旋帰国。二枚目のマスクも手伝い、女性ファンを中心に「ドラゴン・ブーム」が沸いたタイミングで―― 彼の必殺技から名付けた入場曲「ドラゴン・スープレックス」が日本とイギリスの混成バンド、ジョーから提供される。プロレスの入場曲としては、初のオリジナルだった。軽快なメロディで、肩の力を抜いたポップ感が、実に藤波サンに似合っていたと思う。

これ以降、レスラーの個性に応じたオリジナルの入場曲が作られるようになる。「パワーホール」が登場するのは、この2年後である。

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2021.12.03
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カタリベ
1967年生まれ
指南役
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