7月27日

【1983年の細野晴臣:後編】松田聖子や中森明菜に向き合ってガチンコ歌謡曲づくり!

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『【1983年の細野晴臣:前編】散開から40年 YMOが遺してくれたものは何だったのか?』からのつづき

細野晴臣の1893年を振り返る


1983年、YMOを “散開” させた細野晴臣。世界的な名声や、何を出しても礼賛される状況は、メンバー3人にとってむしろ重苦しい枷となった。別の見方をすると、1983年は細野にとって「YMOから自分を解放するための1年」でもあった。

前編では「1983年、細野はYMOでどんな活動をし、どうケリをつけたか」について記した。後編は「1983年、細野がYMO以外にどんな活動をしていたか」について触れてみたい。繰り返すが、1983年という年は、細野晴臣が「やりたいことを、好き放題やった年」だった。そして、その好き放題やったことが、結果的に日本の音楽シーンを大きく前に進めたのだ。

カネボウ化粧品CMソング「君に、胸キュン。」と「夢・恋・人。」


1983年1月は、「君に、胸キュン。」のレコーディングに追われた細野。「胸キュン」はカネボウ化粧品のCMソングになったが、細野は並行してもう一つ、カネボウ絡みの案件を引き受けていた。春のプロモーションソングとして、藤村美樹が歌った2月発売の「夢・恋・人。」である。



藤村はご存じのように、元キャンディーズのミキだ。「普通の女の子に戻りたい」と1978年に解散した3人だったが、ランとスーはその後女優として芸能界に復帰。最後に “歌手” として戻ってきたのがミキだった。ただしこれは期間限定で、この年彼女は実業家と結婚、再び引退した。

細野とともに藤村の歌手復帰のアシストをしたのが、盟友・松本隆だった。細野はこの曲以前にも松本と組んで、いわゆる “テクノ歌謡” を何曲も書いているが、意図的に歌謡曲に寄せて作曲したのはこれが初めてだった。

「モロ、歌謡曲まるだしのメロディでしたが、えー、結構、筒美京平さんの影響があるんじゃないでしょうかねえ僕も」
(2001年7月16日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

筒美が書くような “モロ、歌謡曲” のメロディを自分が書けるとは思っていなかったと言う細野。実際に書いてみたら、思いのほかうまくハマったそうだ。松本は「夢・恋・人。」について、こう語っている。

「良い曲だった。細野さんの中に歌謡曲の王道の箱があるんだよ。普段、彼は封印してるんだけど、ときどき紐解いてくれるんだ」
(コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』より)

松本によると、めったに他人を褒めない細野が「西田佐知子の「くれないホテル」という曲はすごい! 作曲したのは筒美京平という人だ」と教えてくれたことがきっかけで、以後、筒美の存在を強く意識するようになったという。

筒美は元レコード会社の洋楽ディレクターで、従来の歌謡曲とは違うものを創ろうと、洋楽のエッセンスを歌謡曲の世界に持ち込んだ作曲家だ。「くれないホテル」はバカラック風のお洒落な曲だが、サビの「♪あ~あ~ くれない~ くれない~」は思いっきり日本人の琴線に触れるメロディであり、それもまた流行歌を作る上で欠かせない要素である。

「王道」をふまえつつ、まったく違う要素を注入し、新しい曲を生み出す。それが自然な形でサラッと実現できていることを、細野は「すごい」と言ったのだ。これは細野の中にも “王道の箱” があるからこそ言える言葉だ。

森進一「紐育物語」と松田聖子「天国のキッス」


「夢・恋・人。」でつかんだ “自分にも王道の歌謡曲が書ける” という自信が、松本と組んだ4月発売の森進一「紐育物語(ニューヨーク・ストーリー)」へとつながっていく。これは “王道” +細野いわく、ザ・ドリフターズ「渚のボードウォーク(Under the boadwalk)」だそうだ。



森の前作シングルは、松本作詞、大瀧詠一作曲の「冬のリヴィエラ」(1982年11月発売)で、こうして “はっぴいえんど” の元メンバーたちによる歌謡曲の変革が進んでいったのだが、同じ頃「大瀧さんの次は、細野さんがやってよ」というパターンで松本が持ってきた大仕事が、そう、 “松田聖子の新曲” である。

1981年10月、松本は大瀧とのコンビで「風立ちぬ」を書いてヒットさせた。次作「赤いスイートピー」からは5作中4作でユーミンと組み、オリコン連続1位を続けていたが、松本は「いずれは細野さんにも聖子の曲を書いてもらおう」と機会を窺っていた。頃はよし、と依頼したのが83年。でき上がった曲が「天国のキッス」である。細野は言う。



「妙なプレッシャーがありましたね。「歴代初登場1位を守ってきた」とか。「キミの番だぜ」みたいな。「そりゃまずいなぁ。1位取れなかったら僕はどうなんだろう」というプレッシャーですよ。でもはずみで行っちゃうんだろう、という」
(2009年『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』ブックレットより)

細野によると「天国のキッス」は、CM用に作ったコードだけのインスト曲にメロディをつけたら面白かったので「これを使っちゃおう」となったそうだ。ちなみにオケはベースもキーボードもシンセも、すべて細野の演奏である。

「アレンジも、全部自分でやっちゃったんで、思い切り、思い切り、好きなことできたから、すごく満足してるの」
(2001年8月6日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

「やりたいことを、やりたいようにやる」という細野のポリシーが詰め込まれた「天国のキッス」は、「はずみで行っちゃうんだろう」という予想どおり、オリコン1位を獲得。細野も胸をなで下ろしたが、ホッとしているヒマはなかった。息つく間もなく「次の曲も書いてよ」と依頼を受けたのだ。

「ハードルがまた上がっていたんです…… オリコン1位だけでなく、レコード大賞狙いの曲だった(笑)。注文も “荘厳なものを作ってくれ” という感じで」
(『サウンド&レコーディング・マガジン』2009年5月号より)

松田聖子「ガラスの林檎」と中森明菜「禁区」


そんな無茶振りを受けて完成したのが、8月発売「ガラスの林檎」だ。松本はこの曲について、こんなウラ話を披露している。



「細野さんがめずらしく「今回は曲を先に作りたい」って言うから、「じゃあバラードでお願い」って注文した。なのにアップテンポの曲を作ってきたからボツにしちゃったんだ。でも、締め切りを過ぎてもやり直しの曲が全然あがらない。結局詞を書いて渡したら、すぐにできあがった(笑)。はっぴいえんどっぽい曲になったから、(鈴木)茂を呼んでファズギターを弾いてもらって」
(2015年『KAZEMACHI SONG BOOK』より)

実に細野らしいエピソードだ。そしてこの曲は “はっぴいえんど3/4” によって完成した曲だったわけだ。松本の中でも、この曲は大きな意味を持っていた。

「聖子曲の最高傑作だと思う。最高傑作は日替わりだから「天国のキッス」の日もあるんだけど」
(2015年『KAZEMACHI SONG BOOK』より) 

細野がすごいのは、松田聖子に2曲連続で1位作を提供する一方で、そのライバルである中森明菜にも同時期に曲を書き、1位を獲っていることだ。9月発売の「禁区」で、こちらは売野雅勇とのコンビだった。



当初、細野と売野が曲先と詞先で1作ずつ書き、上がったものを交換して2曲作ろうという話だったそうだ。ところが、細野が曲先で書いたほうはディレクターによってボツにされてしまう。結局、細野は曲先で書くのを諦め、売野が書いた詞に曲をつけるだけで終わった。それが「禁区」で、ボツにされた曲はYMOの新曲「過激な淑女」の後半部分となって世に出たのは、前編で触れたとおり。

「これはほんとに歌謡曲スタイルを、踏襲してます。えー、まあ、僕の中ではそういう、ジャンルの中の、まあ遊戯みたいなもんなんですが」
(2001年8月27日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

YMOでは「胸キュン」で “歌謡曲ごっこ” をしていた細野だが、その裏ではガチンコで歌謡曲づくりに取り組み、傑作をいくつも生み出していたわけだ。これも細野の中に “王道の箱” があったからに他ならない。

様々なアーティストに、CMに、「笑っていいとも」に…… そしてYMOの活動も完遂


細野は他にもこの年、様々なアーティストに曲を提供している。藤真利子「天使と魔法」、松原みき「パラダイス・ビーチ(ソフィーのテーマ)」、タンゴ・ヨーロッパ「ダンスホールで待ちわびて」(ナツカシー!)、『笑っていいとも』発の企画モノ「きたかチョーさん まってたドン」などなど、本当に懐が広い。

また、9月発売の遠藤賢司のアルバム『オムライス』もプロデュース。この際、遠藤の紹介で出逢ったのが越美晴(現・コシミハル)である。本当はテクノがやりたいのに、ニューミュージック路線を歩まされフラストレーションが溜まっていた越を、細野は「じゃあウチへおいでよ」とYENレーベルにスカウト。10月発売のアルバム『Tutu』をプロデュースし、テクノの女王誕生にひと役買った。

それだけじゃない。キリン「ビヤ樽」のCMに春風亭小朝・田中康夫と3人で登場。平安時代の坊主役を怪演したかと思えば、降旗康男監督の映画『居酒屋兆治』にも出演。市役所勤務の男を演じたり…… そんなふうにジャンルに囚われず、好奇心の赴くまま、やりたいことをやりたいだけやり、同時にYMOの活動も完遂した1983年の細野晴臣。

YMOが遺してくれたものって、音楽だけじゃなく “垣根なんて、ヒョイと飛び越えるためにあるんだぜ” っていう生き方、自分にとってはそれがいちばん大きかった。その生き方を40年経った今も変えていない細野は、死ぬほどカッコいい。

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2023.03.24
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カタリベ
1967年生まれ
チャッピー加藤
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