7月27日

【1983年の細野晴臣:後編】松田聖子や中森明菜に向き合ってガチンコ歌謡曲づくり!

52
0
 
 この日何の日? 
YMOのシングル「過激な淑女」がリリースされた日
この時あなたは
0歳
無料登録/ログインすると、この時あなたが何歳だったかを表示させる機能がお使いいただけます
▶ アーティスト一覧

 
 1983年のコラム 
原田知世とあしながおじさんの物語。きみはダンデライオン♪

世界最大のアイドルフェス TIF2021 にも登場!「魔法の天使 クリィミーマミ」

凶悪レスラーの入場曲「吹けよ風、呼べよ嵐」俺のプライドはズタズタだ!

マドンナとライ・クーダーに想う、あっちこっちのボーダーライン

YMO最後の実験、シモンズドラムを使った「過激な淑女」と 明菜の「禁区」

インディーズ史に残るソノシート、あぶらだこは何故パンクス以外にもウケたのか?

もっとみる≫




『【1983年の細野晴臣:前編】散開から40年 YMOが遺してくれたものは何だったのか?』からのつづき

細野晴臣の1893年を振り返る


1983年、YMOを “散開” させた細野晴臣。世界的な名声や、何を出しても礼賛される状況は、メンバー3人にとってむしろ重苦しい枷となった。別の見方をすると、1983年は細野にとって「YMOから自分を解放するための1年」でもあった。

前編では「1983年、細野はYMOでどんな活動をし、どうケリをつけたか」について記した。後編は「1983年、細野がYMO以外にどんな活動をしていたか」について触れてみたい。繰り返すが、1983年という年は、細野晴臣が「やりたいことを、好き放題やった年」だった。そして、その好き放題やったことが、結果的に日本の音楽シーンを大きく前に進めたのだ。

カネボウ化粧品CMソング「君に、胸キュン。」と「夢・恋・人。」


1983年1月は、「君に、胸キュン。」のレコーディングに追われた細野。「胸キュン」はカネボウ化粧品のCMソングになったが、細野は並行してもう一つ、カネボウ絡みの案件を引き受けていた。春のプロモーションソングとして、藤村美樹が歌った2月発売の「夢・恋・人。」である。



藤村はご存じのように、元キャンディーズのミキだ。「普通の女の子に戻りたい」と1978年に解散した3人だったが、ランとスーはその後女優として芸能界に復帰。最後に “歌手” として戻ってきたのがミキだった。ただしこれは期間限定で、この年彼女は実業家と結婚、再び引退した。

細野とともに藤村の歌手復帰のアシストをしたのが、盟友・松本隆だった。細野はこの曲以前にも松本と組んで、いわゆる “テクノ歌謡” を何曲も書いているが、意図的に歌謡曲に寄せて作曲したのはこれが初めてだった。

「モロ、歌謡曲まるだしのメロディでしたが、えー、結構、筒美京平さんの影響があるんじゃないでしょうかねえ僕も」
(2001年7月16日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

筒美が書くような “モロ、歌謡曲” のメロディを自分が書けるとは思っていなかったと言う細野。実際に書いてみたら、思いのほかうまくハマったそうだ。松本は「夢・恋・人。」について、こう語っている。

「良い曲だった。細野さんの中に歌謡曲の王道の箱があるんだよ。普段、彼は封印してるんだけど、ときどき紐解いてくれるんだ」
(コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』より)

松本によると、めったに他人を褒めない細野が「西田佐知子の「くれないホテル」という曲はすごい! 作曲したのは筒美京平という人だ」と教えてくれたことがきっかけで、以後、筒美の存在を強く意識するようになったという。

筒美は元レコード会社の洋楽ディレクターで、従来の歌謡曲とは違うものを創ろうと、洋楽のエッセンスを歌謡曲の世界に持ち込んだ作曲家だ。「くれないホテル」はバカラック風のお洒落な曲だが、サビの「♪あ~あ~ くれない~ くれない~」は思いっきり日本人の琴線に触れるメロディであり、それもまた流行歌を作る上で欠かせない要素である。

「王道」をふまえつつ、まったく違う要素を注入し、新しい曲を生み出す。それが自然な形でサラッと実現できていることを、細野は「すごい」と言ったのだ。これは細野の中にも “王道の箱” があるからこそ言える言葉だ。

森進一「紐育物語」と松田聖子「天国のキッス」


「夢・恋・人。」でつかんだ “自分にも王道の歌謡曲が書ける” という自信が、松本と組んだ4月発売の森進一「紐育物語(ニューヨーク・ストーリー)」へとつながっていく。これは “王道” +細野いわく、ザ・ドリフターズ「渚のボードウォーク(Under the boadwalk)」だそうだ。



森の前作シングルは、松本作詞、大瀧詠一作曲の「冬のリヴィエラ」(1982年11月発売)で、こうして “はっぴいえんど” の元メンバーたちによる歌謡曲の変革が進んでいったのだが、同じ頃「大瀧さんの次は、細野さんがやってよ」というパターンで松本が持ってきた大仕事が、そう、 “松田聖子の新曲” である。

1981年10月、松本は大瀧とのコンビで「風立ちぬ」を書いてヒットさせた。次作「赤いスイートピー」からは5作中4作でユーミンと組み、オリコン連続1位を続けていたが、松本は「いずれは細野さんにも聖子の曲を書いてもらおう」と機会を窺っていた。頃はよし、と依頼したのが83年。でき上がった曲が「天国のキッス」である。細野は言う。



「妙なプレッシャーがありましたね。「歴代初登場1位を守ってきた」とか。「キミの番だぜ」みたいな。「そりゃまずいなぁ。1位取れなかったら僕はどうなんだろう」というプレッシャーですよ。でもはずみで行っちゃうんだろう、という」
(2009年『細野晴臣の歌謡曲 20世紀ボックス』ブックレットより)

細野によると「天国のキッス」は、CM用に作ったコードだけのインスト曲にメロディをつけたら面白かったので「これを使っちゃおう」となったそうだ。ちなみにオケはベースもキーボードもシンセも、すべて細野の演奏である。

「アレンジも、全部自分でやっちゃったんで、思い切り、思い切り、好きなことできたから、すごく満足してるの」
(2001年8月6日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

「やりたいことを、やりたいようにやる」という細野のポリシーが詰め込まれた「天国のキッス」は、「はずみで行っちゃうんだろう」という予想どおり、オリコン1位を獲得。細野も胸をなで下ろしたが、ホッとしているヒマはなかった。息つく間もなく「次の曲も書いてよ」と依頼を受けたのだ。

「ハードルがまた上がっていたんです…… オリコン1位だけでなく、レコード大賞狙いの曲だった(笑)。注文も “荘厳なものを作ってくれ” という感じで」
(『サウンド&レコーディング・マガジン』2009年5月号より)

松田聖子「ガラスの林檎」と中森明菜「禁区」


そんな無茶振りを受けて完成したのが、8月発売「ガラスの林檎」だ。松本はこの曲について、こんなウラ話を披露している。



「細野さんがめずらしく「今回は曲を先に作りたい」って言うから、「じゃあバラードでお願い」って注文した。なのにアップテンポの曲を作ってきたからボツにしちゃったんだ。でも、締め切りを過ぎてもやり直しの曲が全然あがらない。結局詞を書いて渡したら、すぐにできあがった(笑)。はっぴいえんどっぽい曲になったから、(鈴木)茂を呼んでファズギターを弾いてもらって」
(2015年『KAZEMACHI SONG BOOK』より)

実に細野らしいエピソードだ。そしてこの曲は “はっぴいえんど3/4” によって完成した曲だったわけだ。松本の中でも、この曲は大きな意味を持っていた。

「聖子曲の最高傑作だと思う。最高傑作は日替わりだから「天国のキッス」の日もあるんだけど」
(2015年『KAZEMACHI SONG BOOK』より) 

細野がすごいのは、松田聖子に2曲連続で1位作を提供する一方で、そのライバルである中森明菜にも同時期に曲を書き、1位を獲っていることだ。9月発売の「禁区」で、こちらは売野雅勇とのコンビだった。



当初、細野と売野が曲先と詞先で1作ずつ書き、上がったものを交換して2曲作ろうという話だったそうだ。ところが、細野が曲先で書いたほうはディレクターによってボツにされてしまう。結局、細野は曲先で書くのを諦め、売野が書いた詞に曲をつけるだけで終わった。それが「禁区」で、ボツにされた曲はYMOの新曲「過激な淑女」の後半部分となって世に出たのは、前編で触れたとおり。

「これはほんとに歌謡曲スタイルを、踏襲してます。えー、まあ、僕の中ではそういう、ジャンルの中の、まあ遊戯みたいなもんなんですが」
(2001年8月27日放送 J-WAVE『Daisyworld』より)

YMOでは「胸キュン」で “歌謡曲ごっこ” をしていた細野だが、その裏ではガチンコで歌謡曲づくりに取り組み、傑作をいくつも生み出していたわけだ。これも細野の中に “王道の箱” があったからに他ならない。

様々なアーティストに、CMに、「笑っていいとも」に…… そしてYMOの活動も完遂


細野は他にもこの年、様々なアーティストに曲を提供している。藤真利子「天使と魔法」、松原みき「パラダイス・ビーチ(ソフィーのテーマ)」、タンゴ・ヨーロッパ「ダンスホールで待ちわびて」(ナツカシー!)、『笑っていいとも』発の企画モノ「きたかチョーさん まってたドン」などなど、本当に懐が広い。

また、9月発売の遠藤賢司のアルバム『オムライス』もプロデュース。この際、遠藤の紹介で出逢ったのが越美晴(現・コシミハル)である。本当はテクノがやりたいのに、ニューミュージック路線を歩まされフラストレーションが溜まっていた越を、細野は「じゃあウチへおいでよ」とYENレーベルにスカウト。10月発売のアルバム『Tutu』をプロデュースし、テクノの女王誕生にひと役買った。

それだけじゃない。キリン「ビヤ樽」のCMに春風亭小朝・田中康夫と3人で登場。平安時代の坊主役を怪演したかと思えば、降旗康男監督の映画『居酒屋兆治』にも出演。市役所勤務の男を演じたり…… そんなふうにジャンルに囚われず、好奇心の赴くまま、やりたいことをやりたいだけやり、同時にYMOの活動も完遂した1983年の細野晴臣。

YMOが遺してくれたものって、音楽だけじゃなく “垣根なんて、ヒョイと飛び越えるためにあるんだぜ” っていう生き方、自分にとってはそれがいちばん大きかった。その生き方を40年経った今も変えていない細野は、死ぬほどカッコいい。

▶ イエロー・マジック・オーケストラのコラム一覧はこちら!



2023.03.24
52
 

Information
あなた
Re:mindボタンをクリックするとあなたのボイス(コメント)がサイト内でシェアされマイ年表に保存されます。
カタリベ
1967年生まれ
チャッピー加藤
コラムリスト≫
53
1
9
8
3
サザンオールスターズのニューウェイヴ「綺麗」中村とうよう10点満点!
カタリベ / 山口 順平
30
1
9
8
5
颯爽と舞い降りたブルーアイドソウルの貴公子、スクリッティ・ポリッティ
カタリベ / KZM-X
114
1
9
8
0
黄金の6年間:東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代
カタリベ / 指南役
21
1
9
8
2
ロバート・ワイアットの魔法、コステロが捧げた名曲と奇跡の声
カタリベ / DR.ENO
75
1
9
8
0
大貫妙子「ROMANTIQUE」いい音楽は必ず売れる、少しずつでも売れ続ける
カタリベ / ふくおか とも彦
18
1
9
8
4
ドッキリ!夢・体・験 安田成美の魅力を開花させた初主演映画
カタリベ / 鈴木 啓之