鮮やかに蘇る五感の記憶
年を取ると忘れっぽくなる一方で、五感の記憶は昨日のことのように鮮やかに生々しく覚えていて蘇ってくる。
彼との出会いは残念ながらうろ覚え… 確か救世軍のバザーでレコードを見てる時に向こうが話しかけて来たのがきっかけだった。それ以来、名前も知らない彼とは本屋やライブ、映画館で何度も偶然会うので会釈したりする仲になった。ソフトな口調で優しい物腰だが、見た目はガリガリに痩せて、長身で、大概ランニングに大きなオーバーオール、眉毛を剃っている彼は何処にいても目立っていた。
1年くらい経った時に初めて彼がフルネームを教えてくれたため、私も自己紹介した。それまで勝手に劇団員かダンサーかバンドマンかと思っていたら、Y君と言って私より年上で大学院生で青山に住んでることが判明。その時初めて電話番号を交換し、よく遊ぶようになった。一日中レコード屋や古着屋を回り、彼の家でご飯を食べて始発までずっと喋ったり踊ったりした。
彼は医学部だったため高価な医学書が沢山あり、それを読み耽るのが楽しかった。医学書の隣にロバート・メイプルソープの写真集が並び、床には『NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)』が無造作に積まれ、聴いたことないレコードが沢山あった。私にとって私設図書館のような部屋だった。
レコードショップが発信力を持っていた時代
彼と初めて行った店に、今は無き高田馬場の「オーパス・ワン」がある。当時高田馬場にはレコード屋が数軒あり、オーパス・ワンは駅近だがちょっと入り口がわかりにくく、漢方薬店の2階にある輸入レコード屋だ。
今では珍しくないが木目の床、明るい店内、レコード屋独特の匂いもなくて整然としていた。小さなインディーレーベルの物やシングル盤も多数あり、ミニコミ誌も置いてあった。店先の階段で2人で休憩がてら缶コーヒーをよく飲んだ。
当時こういう輸入盤は「情報も入荷数も少ないから見たら買い!」をY君から教わった。ある意味、お店自体が発信力を持っていた時代だったので、自然とインディーズ、イギリス好きが集まる傾向にあり、行く度に必ず新譜をドキドキしながら買った。
オレンジ・ジュースの名盤、エルヴィスとソウルとパンクの全部入り!
1987年、Y君は京都で開業することが決まり、引っ越しの準備等でなかなか会えないなか、2人で最後のオーパス・ワンに行くことに。
いつもと変わらず買い物して、また階段で休憩。西日が眩しい中Y君が、引っ越しのお裾分けで幾つかの本とレコードをくれると言う。そのなかには、オレンジ・ジュースのLP『ユー・キャント・ハイド・ユア・ラヴ・フォーエヴァー』が入ってた。
「オーパス・ワンで数年前に買って、エルヴィスとソウルとパンクが全部入っているから、君にピッタリだからあげる。よく部屋で聴いて踊ってたでしょ?」
急に胸がしくしくして来た。西日が眩しくてY君の表情が見えない。よく考えてみたら私達は恋人ではなかった。居心地の良い関係だが恋愛とは違う。
私は彼を尊敬し、彼は私を面白いと言っていた。なのに何故こんなに息苦しいんだろう。最後って、何故切ないのか分からなかった。
高田馬場「オーパス・ワン」にやって来た2人組
そこに店内から一服しに男性2人がやって来た。Y君は場所を譲り、彼等といつの間にか話し出した。音楽談義は暫し続き、私はうわの空で相槌だけ打っていた。Y君がやたら「今週引っ越しなんだ」と2人組に言うたびに胸が苦しくなった。
1時間近く4人で立ち話して引っ越し準備の為高田馬場の駅でY君と別れた。別れ際「京都に行っても電話してね!私も行くから」精一杯の笑顔で言うと「スリー・チアーズ・フォー・アワ・サイド」と改札越しに笑顔で握手してくれた。
彼から貰ったオレンジ・ジュースのLPに入ってる曲―― 「我らに万歳三唱」。英語、ドイツ語、フランス語に堪能な彼がかつてそう教えてくれた。
それっきりY君から連絡は来なかった。高田馬場へも胸が苦しくなるから行かなくなった。忘れたふりをしていた翌年の夏の深夜に電話が鳴った。まさかのY君からだった。
フリッパーズ・ギターがメジャーデビュー、そのアルバムタイトルが…!
「去年最後にオーパス・ワンに行って、帰りに話した子達、覚えてる? デビューしたみたいだよ! フリッパーズ・ギターってバンド」
「へぇー知らない」
「メジャーから出るみたいだけどアルバムタイトルが、海に行くつもりじゃ無かった… だけど、英語タイトルがあるんだよ。スリー・チアーズ・フォー・アワ・サイド」
一瞬目眩がして言葉を失った。
「だから君に電話しなきゃって。フリッパーズ・ギター、スリー・チアーズ・フォー・アワ・サイド、あの店の、あの時の空気感、俺がいた東京のすべて!」
彼に訊きたいことは沢山あったが、結局終始音楽や映画の話になり電話を切った。
深夜に、貰ったオレンジ・ジュースを聴きながら彼の電話番号を聞き忘れたことに気づいた。このアルバムがすべて… そんな風に考えながら、あの日の西日を想い出していた。
2021.01.24