8月21日

【佐橋佳幸の40曲】佐野元春プロデュース「僕にはわからない」でシンガーデビュー!

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連載【佐橋佳幸の40曲】vol.9
僕にはわからない / 佐橋佳幸
作詞:佐橋佳幸
作曲:佐橋佳幸
編曲:佐野元春

佐野元春との出会いは佐橋の中学時代


1996年、佐野元春のアルバム『FRUITS』のレコーディング・セッションに参加したのをきっかけに、佐橋佳幸はTHE HOBO KING BANDの一員として佐野のライヴやレコーディングで大活躍することになるわけだが。

彼らの出会いは、佐橋の中学時代にまで遡る。中学時代、佐橋は初めて結成したフォーク・ユニット “人力飛行機” でヤマハ主催の “ポプコン” (ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募。マニアックな洋楽ネタ満載のオリジナル曲を引っさげて予選会に出場してきたおませな中学生ユニットは、大学生バンドやヤマハのスタッフたちの目にとまる。その後、ヤマハ渋谷店でのフリーライブや、大学生たちが主催する企画コンサートなどにも誘われて出演するようになった。

「コンテストで入賞したり、個人賞をもらったり…。当時の東京の学生バンド界隈で抜きん出た存在の人たちが集まるコミュニティみたいなのがあってね。そこで活動していた人たちが僕らをかわいがってくれたの。後にソロでデビューした人もいたし、プロのバンドのメンバーになる人もいた。その中のひとりが佐野元春さん。コンテストに出た時、たしか佐野さんのほうから声をかけてくれて。すごくかわいがってくれたんです」

佐野が1980年にデビューした3年後、佐橋も同じEPICソニーからUGUISSとしてデビュー。バンド解散後も、佐野と同じ事務所に所属していた渡辺美里をはじめ多くのEPIC系アーティストと共演してきた。が、意外なことに、佐橋が佐野と再会する機会はなかなか来なかった。

「プロになってから、アマチュア時代の知り合いと再会したり一緒に仕事したりする機会はたくさんあって。でも、なぜか佐野さんとは接点がなかったんです。デビューした時から、いつかどこかで “あの時の中学生です” って挨拶できる日が来るだろうなと願ってはいたんだけどね」

もちろん佐野のほうも佐橋の活躍ぶりは耳にしていた。バンドの一員として同じEPICからデビューを果たし、その後セッション・ミュージシャンとしてめきめき頭角を現わしてきたこの “サハシ” という珍しい苗字のギタリストは、当時中学生だった、あの “人力飛行機のサハシくん” なのか? と。

写真提供:佐橋佳幸(現存する “人力飛行機” の写真はこれ1枚らしい。1976年頃、インタビューでも語られているヤマハ渋谷店でのフリーライブの模様)


シンガーソングライターとしての佐橋佳幸


そして、いよいよ再会の時がやってくる。89年、佐野は自ら設立したエムズ・ファクトリー・レーベルからコンピレーションアルバム『mf VARIOUS ARTISTS Vol.1』をリリースした。彼がプロデューサーとして見出した個性的な11組の新進アーティストの新曲を自らDJを務めるFM番組の中でプレミア公開し、それらの音源を最終的に1枚のアルバムへとまとめるという画期的な企画。その新進アーティストのひとりとして佐野は佐橋を指名したのだった。

「当時のチェリー・レッドとか、トット・テイラーのコンパクト・オーガニゼーションみたいなアーティスト自身が発信するインディーレーベル。そういうのって、今でこそ普通に見かけるけど、あの頃の日本ではまだ珍しかったよね。自分のレーベルを立ち上げて、自ら音楽仲間に声をかけて、メジャーのルールに縛られない作品を作って発信していく…。そういう面白いことを佐野さんが始めたと聞いて僕も興味津々だったんですけど。まさか自分に声がかかるとは思わなかった」

当時の佐橋は、セッションギタリストとして、アレンジャーとして多忙を極めていた。ソングライターとしての楽曲オファーも日に日に増えていた。が、“シンガーソングライター” としての佐橋佳幸へのオファーはこれが初めてのことだった。

「最初わりと軽い感じで引き受けたんだけど。考えてみたら、僕が曲を書くだけでなく、自分で作って歌ってたことを知っている業界の人なんて、あの頃誰もいなかったんだよ。当時はあくまでもギタリストとして知られていたし。UGUISS時代だって山根栄子というリードボーカルがいたからね。いきなり僕に歌えっていうのは、“人力飛行機” 時代、自分で曲を作って自分で歌っていた僕の姿を見たことがある人じゃないと絶対に言えないことなんだよ。だから、佐野さんからこの話が来た時に確信したの。あ、中学生時代の僕のことを佐野さんは覚えていてくれたんだ、と」

プロデューサー佐野元春の強力なエネルギー


1988年3月。佐橋は、佐野のファクトリーを訪れた。ようやく再会を果たしたふたりは、たちまち濃密なコラボレーションに突入。そうして生まれたのが「僕にはわからない」だった。

「まず曲のモチーフを作って佐野さんのファクトリーに持って行って。そしたら、曲はすごくいいと褒められて。でもね、僕はてっきり佐野さんが歌詞を書いてくれるもんだと勘違いしていたの(笑)。だから歌詞はほとんど♪ラララーのまま、それを佐野さんに歌って聴かせたら “いいね。じゃ、歌詞を書こう” って。“ええーっ、佐野さんが書いてくれるんじゃないんですか?” “何を言ってるんだ、キミが自分で書くんだよ” と。そこからふたりで顔を突き合わせて “僕だったらこうですかね” “あ、それ、いいね!” とか。佐野さん、ベタ付きで僕の作詞作業に付き合ってくれて。

結局その日のうちに歌詞をフルコーラス書きあげたの。今だから言えるけど、この曲の歌詞には佐野さんが提案してくれた言葉もいくつか入ってるんです。曲を作った時、もともと “Don't you care…” っていうフレーズだけはあったんだけど、そのひとことからここまで世界が広がったのはプロデューサーである佐野さんの強力なエネルギーがあってこそ。とにかく、その集中力のすごさに感動しました」

レコーディングでバックを務めてくれたのは当時の佐野のバンド、ザ・ハートランドのメンバーたち。作業はミックスまで1日ですべて終えてしまったという。

「ハートランドにはすでに一緒に仕事をしたことがある人がふたりいた。西本明さんとは大村雅朗さんのセッションでいろいろ一緒だったし、古田たかしさんとは美里のレコーディングで。小野田(清文)さんと里村(美和)さんとは、実は “人力飛行機” 時代に会ったことがあるんだけど(笑)、プロになってからは初対面でした。

プリプロとかデモ録音とかもなく、歌詞を書いた日に佐野さんと一緒にアレンジもして僕が譜面を書いて、後日いきなり本番。あっという間だった。エンディングのギターソロとかも1回しか弾いてない。弾き終わったら佐野さんが “オッケー、じゃ歌を録ろう” って。 “あれ? もう一回くらい弾いてみたいかもー” つったら、“どっか気になるところあるのかい?” って聞かれて。考えてみたら、 “気になるところ…? あ、ないか” ってことになった(笑)。ものすごいスピードだったことが何よりも思い出深いレコーディングです」



自らアーティストとしての作品を作りたい


バンド解散後、失意の中で始めたセッションミュージシャンとしての仕事。これからはバンドのために蓄えてきた技術を、必要としてくれる人のために使おう… そう決意して新たなキャリアを歩み始めていた佐橋。が、誰にも話すことはなかったものの、いつかまた自らアーティストとしての作品を作りたいという思いがその頃少しずつ心の中に芽生え始めていた。

「佐野さんからのオファーが最初のきっかけとなってシンガーソングライターとしての作品を形にすることができたんだけど。実はその少し前から曲をストックし始めてはいたの。誰かに曲を提供するために書くのではなく、日常的に思いついたものをカセットに録ってまとめておくようにしていた。それは(鈴木)祥子ちゃんと(宮原)学のおかげかな。彼らのような、自分よりも若いシンガーソングライターに出会って。ギタリストとしてセッションに呼ばれるだけでなく、プロデューサーとかアレンジャーとして彼らと対峙しながら一緒に物を作る。そんな経験が、“あ、俺も…” みたいな思いを覚醒させてくれた。もともとは僕も彼らみたいに自分のために曲を作ってたわけだからね。そこに佐野さんからのオファーがあって。そこから、よし、やっぱり本気でちゃんと曲作りを始めようって思った。

この後すぐ、新しく機材を買った記憶があるんですよ。ひとりで多重録音できるように簡単な機材を揃えたの。そこからなんです、きちんとしたデモテープを作るようになったのは。誰かに手伝ってもらうわけにもいかないから、ここからだいぶキーボードも上手になりました(笑)」

「佐野さんがぽん、と肩を叩いてくれた」


こうして91年頃から佐橋は本格的なソロプロジェクトにとりかかる。そして94年、山下達郎をエグゼクティブ・プロデューサーに迎えてのファースト・ソロアルバム『TRUST ME』が完成。

「バンドを解散してセッションの仕事を始めて。なのに、ここにきてまさか自分のソロ名義の作品を作る方向に行くとは想像もしていなかった。そういう意味でも、“やってみたら?” と肩をぽんっと叩いてくれたのが佐野さんだった。よく “背中を押してくれた” って言うけど、この時はそういう感じではなく、ほんと、ぽんって肩を叩いてくれて “あ、そうだった” って何かを思い出させてくれた、みたいな。ものすごく感謝しています。

そもそも “裏方” という道を自ら選んで数年経った僕が、改めて自分の名義で何かをするっていうことはけっこう勇気がいることだし。なかなか難しかったと思う。肩を叩かれたからこそできた。でもこれ、89年でしょ。バンド解散してからまだ4〜5年しか経ってないんだよね。僕もまだ20代だし。今思うと4年とか5年とか、全然たいした長さじゃないんだけど。この時代、ほんっとに濃かったですよー(笑)。

今でもずっと一緒にやってる仲間も、ふと忘れた頃に一緒に何かやったりする仲間も、ほぼ全員この時期、80年代から90年代アタマに出会ってる感じ。面白い人たちがたくさん出てきた時代だったんだろうね。そういう人たちと出会ってはビビっと響き合っていた日々。そりゃ濃いよね。そんな時期に自分の名義のものを作れたわけで。うん。ものすごく重要な時代だったと思います」

ただの恋愛ソングではない「僕にはわからない」


「僕にはわからない」は、自分からは言い出せないナイーブで繊細な男子の心を描いたせつないラブソングだ。振り向いてくれない “きみ” への想いを手紙に綴っては破り捨てる。“きみ” が何も答えてくれない理由は自分への憎しみなのか、優しさなのか。主人公である “僕” にはわからない…。

ーーが、この連載【佐橋佳幸の40曲】をお読みいただいている読者ならば、この歌詞がただの恋愛ソングではないことに気づくかもしれない。何が正解なのかもわからないまま終わってしまったUGUISS時代へのやりきれなさと、それでも振り返れば幸福だった日々への思い…。



「そうだね。それもちょっとあるんだろうね。報われなかったことの歌だからね。それも佐野さんのおかげ。ふたりで顔を突き合わせていろいろ言葉を選んでいくうちに、話がだんだんそっちに向かって。僕が心のどこかで歌いたいと思っていたことを佐野さんが見つけてくれたの。ここで歌っている “Don't you care” の “you” 。これはもちろん歌の主人公が恋した “きみ” のことではあるんだけど、けっしてたったひとりの “きみ” のこととは限らない。どっちにもとれるようになっているんだよね。そういう、歌詞ならではの面白さっていうのは佐野さんの作品でもよくあるじゃないですか。

歌詞ができあがった時、佐野さんが “いい感じでできたね” って言ってくれて。長年、ソングライターをやってきた佐野さんにそんなふうに言ってもらえたことがすごくうれしかったのを覚えてます」


次回【鈴木祥子「ステイションワゴン」の背景にあるサウンドの秘密とは?】につづく

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2024.01.13
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カタリベ
1964年生まれ
能地祐子
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