8月19日土曜の午後2時、僕は大阪・舞洲の大阪シティ信用金庫スタジアムのスタンド最後列に座っていた。翌日からの関西での家族旅行を控え、ヘッドライナーのフー・ファイターズがどうしても観たいと『サマーソニック大阪』に5年振りに参加したのだった。
この日多摩川の花火大会が豪雨で中止になった東京とは対照的に大阪はドピーカンで酷暑であった。フーファイを始めとしてBABYMETAL、マキシマム ザ ホルモンと観たいアクトはオーシャンステージに集中していて体力的には動かない方がベターかとも思ったが、何せあのリック・アストリーが初めて観られると、僕ははるばるオーシャンステージから一番遠いマウンテンステージのある大阪シティ信用金庫スタジアムまでトボトボと歩いて来たのだった。
マウンテンステージはサマソニ東京だと幕張メッセの中なのだが、大阪では屋外。スタンドには屋根も無く陰になる部分はほぼ皆無。スタンドの上に半円状に走るポールの影が唯一とも言える日陰で、僕もここに陣取り暑さに気も遠くなりそうになりながら開演を待った。直射日光で照り返しが厳しそうなアリーナの観客は決して多くなかった。
14時20分スタート。ステージにはギター、ベース、ドラム、キーボードと女性コーラス2名。そしてリックがこの酷暑の中ジャケットを着込み全身黒のいでたちで現れた。曲はいきなり1988年のリック2曲めの全米No.1ソング「トゥゲザー・フォーエヴァー」。
僕は思わず息を呑んだ。酷暑の中での演奏とは思えない、引き締まった生々しいバンドサウンド。そしてアストリーの変わらず太いヴォーカル。ブルー・アイド・ソウルのヴォーカリストとしても一流であることを思い知る。その力強さに暑さが少し吹き飛んだ気がした。過酷な環境下のアリーナの観客も熱く力強い声援を送っていた。
そもそも僕はリック・アストリーとは無縁だった。’80年代のアーティストであったこともこの日スマホで調べてやっと思い出したくらい。流行りものであったユーロビートにも、打ち込みサウンドにも、’80年代後半売れっ子プロデューサーチームであったストック・エイトキン・ウォーターマンにも全く関心は無く、別世界で生きていた。正にこれらのムーヴメントを代表する存在だったリックがポール・マッカートニーと共演するという噂があって、それだけは勘弁して欲しいと思ったことだけはよく憶えている。
よってサマソニで観たのも単なる好奇心と、折角なら元を取ろうという貧乏根性からでしかなかった。しかし僕は1曲めで早くもノックアウトされてしまったのである。なんだい、この生き生きとしたサウンドは。ユーロビートとは別物じゃないか。
MCでリックが昨年50歳になったと聞かされ1個下だったと愕然… 同学年ではあったが。30年前の1987年「ギヴ・ユー・アップ(Never Gonna Give You Up)」で全英1位に輝きブレイクした時、21歳だったとはいくら何でも早過ぎたんじゃないか。だからその後伸び悩んだのでは… いや、このパフォーマンス、現役感バリッバリだぞ。
途中リックがドラムを叩きながらAC/DCの「地獄のハイウェイ(Highway to Hell)」を歌った。意外な選曲と演奏にまたしても呆気に取られたが、実はアストリーはそもそもドラマーだったことを後に知る。しかしこの時もジャケットは着たまま。どこまでプロなんだ、エンターテイナーなんだと、最早僕は脱帽する他無かった。
最後は当然ながら’88年にリック初の全米No.1となった「ギヴ・ユー・アップ」。リックもバンドも全くテンションを落としていない。この曲でこんなに熱くなれたのは30年で初めてだろう。いつしかアリーナにも観客がいっぱいになっていた。それは間違い無く感動的な光景だった。
炎天下で観たことで、かえって僕は暑さにも屈しないリックの底力を目の当たりにすることが出来た。30年越しで僕はリックのことがすっかり好きになってしまった。遅いにも程がある。
しかし翌日以降もリックは日本を、そして世界までも賑わせていく。僕が大阪で抱いた第一印象は存外当たっていたのかもしれない。
『30年越しのリック・アストリー ~ 奇跡の全英No.1復活篇』につづく
2017.09.05