『30年越しのリック・アストリー ~ 奇跡の全英No.1復活篇』からのつづき
2017年8月22日火曜の夜、僕は3泊4日の関西旅行から帰京し、トレヴァー・ホーンの5年振りの日本公演を観るためにBillboard Live Tokyoでのセカンドステージに駆け付けた。
同行した友人に3日前に『サマーソニック大阪』で観たリック・アストリーがいかに素晴らしかったかを語り、翌20日の『サマソニ東京』でのフー・ファイターズとの話題沸騰の共演、そして更に翌日でありこの前日でもある21日のリック東京単独公演でのフーファイの「エヴァーロング」のカヴァーを観られなかったことを少し残念に思っていることを話した。
するとライヴも後半に入った10曲め、トレヴァーの紹介でステージに、黒縁の眼鏡をかけスウェットというラフないでたちのリック・アストリーが現れたのである。あまりの予想外の出現に、もう僕は笑うしか無かった。どこまで神出鬼没なのだ、今回のリックは。
前から2列めだったので大阪よりも遥かに急接近。始まったのはトレヴァーのプロデュースで1984年にイエスに初の全米No.1をもたらした「ロンリー・ハート(Owner of a Lonely Heart)」。場内は大いに沸き総立ちになった。しかしよく見るとリックはカンペ持参。そしてアルトのリックにイエスのヴォーカル、ジョン・アンダーソンの高音は無理があり、程無くサビは1オクターブ下げられた。凄いもの、と言うよりは珍しいものを観たという感であった。
リックはこの前にブルーノート東京でダーティー・ループスのライヴを観てハシゴでこちらに観に来て飛び入りで参加したらしい。お陰で僕はこの夏のリックの日本での最初と最後のパフォーマンスを目撃するという珍記録を達成した。リックも翌日facebookで「この夏の日本への旅は何てスゴかったんだ」と述懐していた程であった。
トレヴァー・ホーンだが、率直に言って80年代には決して得意ではなかった。1979年の自らのバンド、バグルスでの出世作「ラジオ・スターの悲劇(Video Killed the Radio Star)」がとにかく肌に合わず、「ロンリー・ハート」にこそ度肝を抜かれたものの、やはりホーンがプロデュースしたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドもどうにも作られた印象が強く馴染めなかった。単に売れ線と呼ばれた、シンセを多用したサウンドが苦手だっただけなのかもしれないが。
しかし2012年、やはりBillboard Liveで初めて生で観たトレヴァーに僕は考えを改めざるを得なかった。途中、自らがプロデュースしたかの悪名高きt.A.T.u.の2002年のヒット曲「オール・ザ・シングス・シー・セッド」をセルフカヴァーしたのだが、生バンドでの演奏で歌われたこの曲は予想以上にグッと胸に迫り、不覚にも僕は涙しそうになった。シンセの虚飾を剥いで生で演奏されるトレヴァーのプロデュース曲は、どれもこれも確かな説得力を有していたのだ。
それは今年も同様だった。そして5年前と同じく、ライヴは何とティアーズ・フォー・フィアーズの「ルール・ザ・ワールド(Everybody wants to Rule the World)」のカヴァーで締め括られた。
実はこの曲、トレヴァーのプロデュースでも何でもないのである。何故この曲を取り上げたのか終演後のサイン会でトレヴァーに聞いてみたら「いい曲だからさ」と笑顔で返された。この柔軟性こそがトレヴァーが売れっ子プロデュ-サーだった所以なのだろう。
80年代、エレクトリックサウンドに彩られ売れたミュージシャンが2010年代には生バンドに拘り現役性を継続する。この共通点を持ったリック・アストリーとトレヴァー・ホーンが東京で共演したのは、故に当然の成り行きだったのかもしれない。両者に互いへのリスペクトがあったことも言うまでもないだろう。
最後に最新情報。フー・ファイターズとリック・アストリーは9月にロンドンで再び「ギヴ・ユー・アップ」で共演した。そしてやはり9月、カタリベ中川肇さんがよく取り上げるアメリカのテレビ番組『ザ・レイト・レイト・ショウ・ウィズ・ジェームズ・コーデン』の名物企画「カープール・カラオケ」でもフー・ファイターズが司会者ジェームズ・コーデンと共にバンドで「ギヴ・ユー・アップ」を披露した。
この夏日本で始まったリック・アストリー再評価の波はまだまだ止まらなさそうだ。
2017.09.29