「レッツ・ダンス(の大ヒット)は、悪夢でしたねえ」
『DAVID BOWIE is』のキュレーター、ヴィクトリア&アルバートミュージアムのジェフリー・マーシュは笑った。日本展内覧会でのことである。『DAVID BOWIE is』の’80年代中期以降の展示が薄めなのも無理は無かった。
この3月、ボウイ関連のトークイベントに何本も足を運んだのだが、ロッキング・オン編集長の山崎洋一郎も、滋賀県立大学教授、細馬宏通も、’70年代からボウイを愛聴していたが故に「レッツ・ダンス」は発表当時全く受付けられなかったと異口同音に語っていた。
「レッツ・ダンス」で高3の時にボウイを初めて知った僕は少々懐かしい思いがしたのである。
1983年春「レッツ・ダンス」が流れると、ボウイが売れ線に走ったという声が盛んに聞こえてきた。実際にこの曲はあっという間に全英と全米でNo.1まで上りつめ、正に売れたのであるが、しかし売れ線と言われると、この曲が初ボウイだった僕は異を唱えたかった。
「売れ線と呼ぶには余りにヘンじゃない?」
まず「踊ろうぜ」というにはちょっとテンポが遅かった。MVでも小太りのおっさんがゆったりとリズムに身を任せている。どう見ても真似したい感じではなかった。そのMVもオーストラリアの原住民アボリジニが文明に触れてエライ目に遭うというもの。
空にキノコ雲がオーヴァーラップ(以下OLと略)されたり、ボウイの歌う顔も画面の変な位置に何回かOLされたり、最後もギターソロを弾くボウイの左右に文明とアボリジニの画がSFチックにOLされる。お世辞にもスタイリッシュとは言い難く、カルト臭すらあった。
そして何よりもボウイのヴォーカル。この発声法も一筋縄ではいかず、決してポップとは言えない独特な個性を放っていた。
「レッツ・ダンス」はボウイビギナーにとってはとにかくヘンな曲だった。その違和感が故に僕らはあっという間にこの曲に魅かれたのだ。
細馬とトークイベントを行った野中モモの好著『デヴィッド・ボウイ-変幻するカルト・スター』(ちくま新書)では「レッツ・ダンス」に結構ページ数が費やされている。その中にはボウイがプロデューサーのナイル・ロジャースと時間をかけてどの様なアルバムを作るか検討したことが書かれている。
最終的にはボウイが “赤いスーツで赤いキャデラックに乗ったリトル・リチャード” の写真を見せ、次のレコードはこれで行く! と宣言した。ロジャースはこの写真に古さとモダンさを感じたらしい。
「レッツ・ダンス」を “古いけど新しい” と評した人物が『DAVID BOWIE is』にもいた。いらした方はもちろん分かるだろうが、それは北野武である。終了直前なのでもう詳らかにしてしまうが、『DAVID BOWIE is』日本独自展示の北野武の「レッツ・ダンス」の話は、「ボウイで一番好きな曲は何ですか?」という質問への答えであった。
ここでの北野の「レッツ・ダンス」評は正鵠を射ていた。インタビュー現場にいた僕は、一番好きな曲が「レッツ・ダンス」で一致したことだけで既に嬉しかったのだが、その評の鋭さには改めて感服せざるを得ない。
北野武には短い言葉で本質を言い当てる力があるのだ。
小学生の時に聞いた「レッツ・ダンス」がやはり初めてのボウイだった野中は僕と同様この曲への想いが強く、著書においてページを割いたのかもしれない。MVに込められたボウイの意図や歌詞に出てくる “赤い靴” に関する考察等、まだまだ読み所は多い。『DAVID BOWIE is』でボウイに関心を持たれた方にも、熱心なファンの方にもご一読をお奨めしたい。
初めてリアルタイムで聞く曲がどの曲なのかは実はとても大切なことなのだ。「レッツ・ダンス」が初めてのボウイだった僕らは、そのヘンさを難なく受け入れることが出来た。
山崎も細馬も、最近になって漸く「レッツ・ダンス」がヘンな曲だと分かってきたと、これまた異口同音に語っていた。“誤解” を解くのに優に30年の日々を要しているのである。歳月を経て真の魅力を知ることもまた一興なのかもしれないが。
マーシュの “誤解” はいつ解けるのだろう。
彼は「次は君たちがボウイを新たにキュレートしてもいいのでは」と自信を持って語っていた。『DAVID BOWIE is』はまもなく終わるが、’80年代中期以降にも光を当てた新たな『DAVID BOWIE is』が生まれるのもそう遠い先のことではないかもしれない。
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2017.04.03