渡辺プロに所属しながら、最もそれらしくなかったバンド、“チャクラ”。
逆に個人的には最も刺激を感じていたその音楽性だったのですが、経費がかかる一方、売上は芳しくありませんでした。
参考:
「知られざる名盤『さてこそ』チャクラは早すぎたニューウェイブ・バンド」1981年11月に2nd アルバム『さてこそ』をリリースした後、東名阪のライブハウスで精力的にライブ活動を続けていたチャクラですが、82年中にはビクターとの契約が打ち切られ、渡辺プロからは、(人間関係ではなく)経費(給料)削減のため、ヴォーカルの小川美潮と作・編曲を担当する板倉文以外のメンバーが解雇されてしまいます(解雇されたメンバーのひとり、ベーシストの永田 “どんべい” 純はその後、矢野顕子さんのマネージメントなどを経て音楽業界人として活躍することになりますが……)。
バンド存続を期して、私はいくつかのレコード会社と話しましたが、どこでも言われたのは、「小川美潮のソロならば」ということでした。たしかにソロにしてそのプロデュースを板倉文が担うという “Superfly” パターンもあったかもしれませんが、その時は「ソロ=チャクラ崩壊」としか考えられず、彼らも私もNGでした。結局、唯一「チャクラのままで」と了解してくれたVAPレコードに移籍を決めました。1981年発足ですから当時はまだできたばかりのレコード会社、担当A&Rは後にトイズファクトリーの社長となる稲葉貢一さんでした。
なんとか命がつながり、次の作品作りに入ることができましたが、制作予算も厳しく、苦肉の策で7曲入りと曲数を減らしたアルバムにしました。
2人だけになったため、ドラムやベースはゲストミュージシャンです。ドラムは佐野元春の “ハートランド” にいた古田たかし君と、大御所、村上 “ポンタ” 秀一氏が参加してくれました。古田君とはどういう縁だったかな? ポンタさんは、美潮が以前から、坂田明氏率いる “Wha-ha-ha” に参加しており、そのつながりからでした。
学生時代に軽音楽部でドラムをやっていた私、自分ではなかなかイケてると自惚れていたのですが、京都の「拾得」というライブハウスで “カミーノ” というバンド(大村憲司、小原礼、村上秀一、是方博邦)のライブを観て、眼前で繰り広げられるポンタさんの凄まじいとしか言いようのないドラミングに圧倒され、私なんかには到底この域に到達することはできない、と鼻っ柱を根っこから叩き潰されました。
そんな思い出があるポンタさんと、これが初仕事で、私はかなりワクワクしていました。美潮との信頼関係もあるので、セッションはフレンドリーかつ真剣に進行していきました。アルバムのラスト曲「テーマ」でのポンタさんは、雷鳴が重なり続くようなタムの連打がまさに彼ならではの名演ですが、この曲のキック音はいろいろ試した結果、ベースドラムではなくそのケースを、マレットで叩いた音なんです。エッジがクリアで心地よい音でしょ?
それはよかったのですが、ポンタさんはスタジオミュージシャンとしては最高ランク、1時間12,000円、いや15,000円だったかな? 掛ける数時間なので、予算が厳しいこともあり、フレンドリーな雰囲気だったこともあり、セッション終了後ちょうどトイレでいっしょになったポンタさんに、「申し訳ないんですが、少しディスカウントしてもらえないですか?」と頼んでみました。
そうしたらポンタさんは即答で、「いや、それはできない。オレはプロとしてオレのギャラに見合う仕事はきちんとしたつもりだし、あなたが払うんじゃなくてあなたの会社が払うんだろ?(お金を持っているはずの)会社が個人のオレを値切るのは失礼だよ。」と。
私は恥ずかしくなり、その場で、つまりトイレで、平謝りしました。
それ以来私は、少なくともメジャーのレコード会社は、いい音楽を作るためのお金をケチってはいけない、という考え方になったのです(^^)。
2018.01.12