12月14日

三谷幸喜の “黄金の6年間” 映画「12人の優しい日本人」が最高傑作!

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1990年から1995年、それはもう1つの “黄金の6年間”


「黄金の6年間」とは、僕がこのリマインダーで連載しているシリーズ企画のタイトルである。

それは、1978年から1983年までの6年間を指し、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。また、様々な業界で若いクリエイターが頭角を現し、彼らはジャンルを越えてクロスオーバーに活躍した。

具体的に、その6年間に何が起きたかというと――
ユーミンが年2枚のオリジナルアルバムを出していた時代がピタリと重なり、YMOの結成から散開に至る6年間であり、村上春樹がデビューして初期3部作を書いた時代であり、角川映画の全盛期であり、フジテレビが覚醒して三冠王を取り、ビートたけしが若者の教祖となり、劇団夢の遊眠社や第三舞台が脚光を浴び、『JJ』や『BRUTUS』などが創刊され、西武百貨店の「おいしい生活。」やホイチョイ・プロダクションズの『気まぐれコンセプト』など “広告” がトレンドになり、東京ディズニーランドがオープンした時代である。

そう、早い話が、狂乱と祝祭と試行錯誤の6年間である。だから面白い。人生だって、振り返って面白いのは、分別のある大人に成長した時代よりも、圧倒的に試行錯誤を繰り返した未熟な青春時代である。恋と冒険に目覚め、挫折と覚醒を繰り返した、あの還らざる日々――。

さて、今回のコラムは、その番外編である。
実は、黄金の6年間はもう1つある―― というのが、今回のテーマ。それは、1990年から95年にかけての6年間である。バブルが崩壊して、更地になった様々な業界に新しい才能が芽吹き始め、彼らは既存の業界ルールに捉われずに成長し、日本のエンタメ界を面白く、エキサイティングに盛り上げた。俗に、“サブカルの時代” ともいう。80年代をメインに扱う当リマインダーの趣旨から少し外れるので、番外編とさせていただく。

例えば、音楽業界でミリオンセラーが量産され、お笑い界はダウンタウンが天下を取り、テレビの連ドラでは名作が続々と誕生し、少年ジャンプは『ドラゴンボール』『スラムダンク』『幽遊白書』の三本柱で最高部数653万部を記録した時代――。そして今日扱う、この人もまた、時を同じくして頭角を表した。三谷幸喜、その人である。

映画版の監督は中原俊、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」


奇しくも今日、12月14日は、今から29年前の1991年に、三谷サンが脚本を書いた映画『12人の優しい日本人』が封切られた日に当たる。

そう、同映画と言えば、三谷サンが旗揚げし、現在 “充電期間中” の劇団「東京サンシャインボーイズ」の舞台版がそもそものオリジナル。初演は1990年7月。その後、キャストを変えながら4度に渡り再演され、今年の5月には、オリジナルメンバーに近い座組で、Zoomによるリーディング劇がYouTubeで生配信されたのは、まだ記憶に新しい。

タイトルからも分かる通り、ヘンリー・フォンダ主演の映画『十二人の怒れる男』へのオマージュだ。「日本にもし陪審制があったら……」という架空の設定で作られたシチュエーションコメディで、映画版は初演の翌年、中原俊監督がメガホンを握り、撮影された。ほとんどの人は、この映画版で同作品に触れたのではないだろうか。

かくいう僕もそう。映画好きの友人に勧められ、レンタルビデオで借りて見た同映画が、ファースト三谷体験だった。一瞬で稀代の脚本家の虜になったのを覚えている。実際、東京サンシャインボーイズが、東京で一躍チケットが取れない人気劇団になったのも、同舞台の初演がキッカケである。

天才・三谷幸喜、少年時代に影響を受けた「大脱走」「刑事コロンボ」


さて―― 天才・三谷幸喜。
生まれは1961年7月、東京は世田谷区の出身である。ちなみに一人っ子。2歳から4歳まで福岡市で暮らしていたこともあるそうで、福岡出身の僕としては、その辺りも親しみを覚える一因かもしれない。実は、少々複雑な家庭のお生まれで、あまり踏み込むのも無粋なので、アウトラインを知りたい方は、三谷サン脚本のスペシャルドラマ『わが家の歴史』を観てください。

三谷サンのエッセイなどを読むと、幼少期の写真が掲載されていて、お母様はかなりの美人というのが分かる。三谷少年も裕福な身なりで、ご本人によると、何不自由なく、少年時代を過ごしたとか。早くからコメディやミステリーの世界に関心を持ち、小学生時代にはチャップリンに会うために、母と2人でスイスの喜劇王の自宅を訪れたという仰天エピソードもある。

三谷少年が、いわゆるチームものの話の面白さに目覚めたのは、小学4年の時、1971年である。それは、テレビの『ゴールデン洋画劇場』で映画『大脱走』を初めて観た時のこと。ちなみに、この話、実は僕がご本人から直接聞いた話で、前にビッグコミックスピリッツの企画で、浦沢直樹サンと三谷幸喜サンの対談企画があって、なぜか僕がその司会を務めたんです。で、その時にご本人が明かしてくれたもの。

ちなみに、三谷少年と『刑事コロンボ』の出会いは、その翌年の小学5年生の時。三谷サンはコロンボの面白さにすっかり魅せられ、全話、テープレコーダーに録音して、繰り返し聴いて耳で台詞を覚えたという。後年、『古畑任三郎』が書かれる下地はその時に培われたのだ。まだホームビデオが普及する前の話である。

1983年、劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗揚げ


話は飛んで―― 1983年。当時、日大芸術学部に在学中の三谷サンは、仲間たちと劇団を旗揚げする。劇団名は、敬愛するニール・サイモンにあやかった。作風は、脚本やプロットの巧みさで見せる、いわゆる “ウェルメイド・プレイ”。当時の小劇場ブームとは一線を画し、日本の演劇界で2つとない独特のポジションを確立する。

だが、劇団が売れるのはまだ先の話。初めて観客が1,000人の大台を超えたのは、1989年の『天国から北へ3キロ』だった。同作品はその後、ドラマ化もされたので、三谷サンの最初のヒット作と言えるだろう。死んだ恋人と残された男のラブストーリーで、彼女は霊となって、彼のそばに居続けるが、その姿は見えず、声も聞こえない。しかし、唯一息だけは吹きかけられるので、ハーモニカを吹いて意思疎通するという話。ちなみに、これ、映画『ゴースト』の前の年だから、こちらの方がアイデアは早かった。

始まった飛躍の時代、三谷幸喜の “黄金の6年間”


そして、バブルが崩壊して、1990年。いよいよ三谷サンの飛躍の時代が始まる。

■ 1990年
 『彦馬がゆく』(舞台)
 『12人の優しい日本人』(舞台)
■ 1991年
 『ショウ・マスト・ゴー・オン~幕をおろすな~』(舞台)
 『12人の優しい日本人』(映画)
■ 1992年
 『君たちがいて僕がいる』(ドラマ)
 『総務課長戦場を行く!』(ドラマ)
■ 1993年
 『振り返れば奴がいる』(連続ドラマ)
 『ラヂオの時間』(舞台)
■ 1994年
 『警部補・古畑任三郎』(連続ドラマ)
 『笑の大学』(ラジオドラマ)
■ 1995年
 『王様のレストラン』(連続ドラマ)

―― いかがだろう。まさに、きら星のごとく作品たちが居並ぶ。『ショウ・マスト・ゴー・オン』は後に映画『カメラを止めるな!』の元ネタになり、『ラヂオの時間』は初めての連ドラ『振り返れば奴がいる』で脚本をかなり直された経験を基に書かれ、ラジオドラマ『笑の大学』は後に舞台と映画になった。

ちなみに、東京サンシャインボーイズは1994年を最後に30年の充電期間に入り、以後、舞台はパルコ劇場のプロデュースで書くことが多くなった。

もちろん、1996年以降、今日に至るまで三谷サンは一貫してご活躍されているが、1983年の劇団旗揚げから37年間の作家活動のうち、この6年間に生み出された作品の質の高さは際立っている。まさに、黄金の6年間だ。そのフィナーレを飾る『王様のレストラン』を三谷幸喜最高傑作と位置付ける人も多い。僕も、その意見に異論はない。

三谷映画の最高傑作「12人の優しい日本人」


最後に、29年前の今日、公開された映画『12人の優しい日本人』について少々。脚本はもちろん素晴らしいが、中原俊監督の遊びすぎない、スタンダードな映像もいい。かと言って冗長にもならず、テンポ感がお見事。個人的には、三谷サンは脚本に徹して、映画監督は別の人にやらせたほうがいいと思う(笑)。

そうそう、キャストもいい。今の三谷映画は、ともすればオールスターキャストになりがちだけど、『12人の優しい日本人』は渋くて、味のある役者たちが集められ、そのハマり具合が絶妙なのだ。ぶっちゃけ、役者の年齢幅がある分、オリジナルのサンシャインボーイズ版より、こちらの方がクオリティは高い。

個人的に気に入ってる配役は、最後まで無罪の主張を変えず、意外と骨のあるところを見せてくれる温和なおじさんの陪審員4号を演じた二瓶鮫一サンと、名言「むーざい」を放ったテキトー主婦の陪審員8号を演じた山下容莉枝サン、それに陪審員11号を演じたトヨエツと、やたら仕切りたがる陪審員12号を演じた加藤善博サンですね。

ちなみに、トヨエツはまだブレイク前で、フジテレビのドラマ『NIGHT HEAD』に出るのは、この翌年。でも、もうスターの雰囲気がプンプン出ている。そして、加藤サンは「あぁ、こんな仕切りたがる人いるなぁ」と思わせるナチュラル感が素晴らしい。若くして、自ら命を絶たれたのが実に惜しい役者さんである。

そう、脚本・演出・配役―― どれをとっても、この映画『12人の優しい日本人』こそ、三谷映画の最高傑作だと思う。個人的には、ね。

異論は認めるけど、聴く耳を持たない。


※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。


2020.12.14
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カタリベ
1967年生まれ
指南役
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