ハードロック系でいてポップ、TOTOサードアルバム「ターン・バック」
TOTOのサウンドはいつだってフレンドリーだ。本人たちはそう思って創っていないとは思うのだが、結果としてフレンドリーなサウンドになっている。そうでなければ、こんなに売れていない。
わたしは1979年、中2の終わりに、ボズ・スキャッグスの「ロウダウン」を経由して、TOTOの沼に堕ちた。その頃には既にセカンドアルバムの『ハイドラ』がリリースされていたが、プログレ色の強い『ハイドラ』よりも1978年発売のファーストアルバム『宇宙の騎士(TOTO)』をどちらかというと好んで聴いていた。
1981年初頭にリリースされたサードアルバム『ターン・バック』は、ハードロック系を好む当時のボーイフレンドに「TOTOがプログレからこっち(ハードロック系)に来たんか」と好意的に受け入れられた。ただしファーストアルバム『宇宙の騎士』~セカンド『ハイドラ』とTOTOを聴いていたわたしには正直なところ「ちょっと違う」という内容だった。
レコードジャケットひとつにしても、当初の2作とは違いすぎた。当時彼らがやりたかったアリーナ・ロック(商業主義的なロック)については認めるが、「アルバム自体は全米チャートでも30位に届かず(最高41位)、リリースツアーもしなかった」とスティーヴ・ルカサーの自伝に記されている。
ただし日本では10万枚を売るヒットとなった。カーズやクイーン、ジャーニーの名作でエンジニアを務めたロイ・トーマス・ベイカーやジェフ・ワークマンと組み、音作りの意味でそれまでよりもハードロック系を取り込んだ。その一方でポップさは継続しており、プログレ色の強い『ハイドラ』より結果としてぐっとポップなアルバムになっていたと思っている。
レコーディングに9か月かけた4thアルバム「聖なる剣」
米国での前作のセールスが芳しくなかったことで、TOTOのメンバーは背水の陣の覚悟で4枚目のアルバムの制作に臨んだ。エンジニアにはアル・シュミットを迎え、レコーディングには9か月、1,000時間を超える時間をかけた。
ファーストの『TOTO』に回帰し、スティーヴ・ルカサーによると「ファンキーなグルーヴとラジオでかかれば素晴らしく聴こえるサビ、このふたつとロックンロールを融合」したのがTOTOの4枚目のアルバムとなる『聖なる剣(TOTOⅣ)』だ。『宇宙の騎士』『ハイドラ』同様に『聖なる剣』のジャケットには剣が描かれている。描かれているというよりも剣が主役になっている。『宇宙の騎士』に描かれた剣は、ジェフ・ポーカロのアイデアだという。
ジェフ・ポーカロについて書かれた書籍『ジェフ・ポーカロ イッツ・アバウト・タイム 伝説のセッション・ワークをめぐる真実のストーリー』(DU BOOKS)によるとジェフは、これが「マヌエラ・ラン」のオープニングの歌詞にちなんだものだという。「Don' t look now, you' d better watch that sword that' s hanging over you(今 見てはいけない、頭上の剣に気をつけろ)」
強烈な存在感を放つ「アフリカ」
アルバム『聖なる剣』のA面に針を落とすと、ジェフ・ポーカロの爽快なドラムで始まりデヴィッド・ペイチのキーボードが鳴り渡る、グルーヴ感に富んだ「ロザーナ」が強い印象を残す。スティーヴ・ルカサーが作曲し自ら歌うバラード「ホールド・ユー・バック」の壮大さと美しさたるや!
『ターン・バック』セッション時からあたためていたバラードのアイデアから生まれた、メロディもストリングスもどこを切っても美しいバラードだ。サザンオールスターズ「Oh!クラウディア」をはじめとした邦楽にも影響を与えている。
B面もTOTOらしい緻密な演奏のロックンロールが3曲続く。ロックから場面転換をするようなファンキーでソウルジャズライクな4曲目の「ユア・ラヴ」を経て、アルバムの最後で、強烈な存在感を放つのが「アフリカ」。
ジェフ・ポーカロが11歳のとき、家族と行ったニューヨーク万国博覧会でアフリカ・パビリオンに入ったことがきっかけで、「アフリカ」の種がジェフの頭に植え付けられたという。博覧会で全員が同じパートをプレイしてそれを全員が外さないという現場は、さながら宗教体験のようだったそうだ。
レコーディング当時、ヤマハの新しいシンセサイザーのプロトタイプの設計とテストにスティーヴ・ポーカロとデヴィッド・ペイチが協力しており、シンセサイザーのサウンドの中にブラスとマリンバの音があった。それにインスパイアされてデヴィッド・ペイチが書いたのが「アフリカ」だ。デヴィッド・ペイチがアウトラインをキーボードで弾いて、そこにジェフ・ポーカロがパーカッションのループを入れるアイデアを出した。ジェフ・ポーカロがアフリカの民族音楽のコレクターでもあるエミル・リチャーズ、ポーカロ兄弟の父でパーカッショニストのジョー・ポーカロらを連れてきてグルーヴをプレイした。
本や写真で見ただけの野生の王国、アフリカ。曲を聴いているだけでその光景が頭に広がる。わたしはこの「アフリカ」がアルバムで一番のお気に入りになった。制作当時、デヴィッド・ペイチはアフリカに足を踏み入れたことも飛行機でアフリカの上を飛んだこともなかったという。
天に召されるのが早すぎたジェフ・ポーカロ
デビュー時にTOTOがコロムビアと結んだ契約はレコード4枚。彼らが背水の陣で制作した『TOTOⅣ』は、全米でビルボード4位を記録し、グラミー賞も制覇する大ヒットアルバムとなった。
わたしがはじめて行ったコンサートが、大阪府立体育会館でのTOTOのコンサートだった。高2に進級した1982年春、ゴールデンウィークの文化祭も終わった直後のお楽しみ。場所は難波の大阪府立体育会館。祖母から借りた双眼鏡を手にして足を運んだが結局使わず、はじめて見る本物のTOTOの演奏に夢中になった。来日記念盤に加えてコンサートパンフレットまで手にして、興奮して帰宅したものだった。その後大人になってからも数回コンサートに足を運んでいるが、そこにはジェフ・ポーカロはいなかった。
1992年8月5日にジェフ・ポーカロは38歳で天に召された。逝去から数日後に聴いたラジオのニュースで知った。正直なところ、信じられなかった。前年にQUEENのフレディ・マーキュリーを失い、中学時代のアイドルだった彼らが天に召されるのにはあまりにも早すぎると思った。その時私は26歳だった。あれからもう30年も経つが、ジェフ・ポーカロの生み出したグルーヴは、多くの人の心とからだを永遠に揺さぶり続けている。
【参考文献】
スティーヴ・ルカサー自伝 福音書(ゴスペル)TOTOと時代の「音」を作った男たち(2018年、DU BOOKS)
ジェフ・ポーカロ イッツ・アバウト・タイム 伝説のセッション・ワークをめぐる真実のストーリー (2022年 DU BOOKS)
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2022.04.19