4月16日

ジャーニーが屈辱を晴らした夜、初の武道館ライブ終了後に大パーティ!

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ジャーニーの来日公演「エスケイプ・ツアー」が日本武道館で開催された日
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photo:SonyMusic  

来日アーティストと新しい関係を築くきっかけになるカンパニーディナー


レコード会社として来日したアーティストに対する最もオフィシャルなホスピタリティとして、“カンパニーディナー” というセレモニーがあります。前回のコラム『これぞ最上級!大賀典雄プレゼンツ、大物来日アーティストへのおもてなしディナー』では、特に親会社SONYの大賀社長まで引っ張り出した “スーパースター達のオモテナシ模様” を紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。今回はその続編です。

さて、来日が興行だろうが、プロモーションだろうが、これは遠来の客をもてなすということでホスピタリティを施すのは当然だと思っています。「一度食事を一緒にしたくらいで簡単に理解しあえるのか?」と思われかもしれませんが、そこは日本人同士でもそうであるように、外人でも同じく打ち解けて新しい関係を築くきっかけになるものです。一方のアーティストからしてみれば、レコード会社の我々に、日本で自分のアルバムをたくさん売って欲しいわけですから、彼等もまた我々に多少の気遣いはあるのです。

ところで、カンパニーディナーと言っても、確かに前回紹介したような “大賀典雄プレゼンツ” のビリー・ジョエル@マキシム・ド・パリみたいなフォーマルなケースもありましたが、ほとんどは気楽なカジュアルなものです。アーティスト側もそれを望みます。そもそもが革ジャン・Tシャツのロックな連中ですから、かしこまった席は苦手です。

洋楽アーティストならではのお店の選び方


実はカンパニーディナーにもある程度のランクがありました。売上げが高いアーティストと新人では、当然待遇も違うものです。私が担当したビリー・ジョエル、ボズ・スキャッグス、ジャーニーなどは大成功アーティストですので、基本的には本人達の希望メニューを確認して選んでいますし、予算も気にすることなく最高級なお店を選びます。

ステーキなら乃木坂、焼肉なら西麻布、鮨なら六本木などにある高級店を利用します。ただ、「メニューにないものを作ってくれ」などの外人特有のリクエスト(わがまま?)は絶対覚悟しておく必要があるので、外人の接客に慣れているお店を使っていました。

また、いくら高級なところでも、例えば和食会席料理屋など靴を脱がなければいけない店はできるだけ避けていました。こういうのは洋楽ならではの情報であり知識です。

アメリカのスポーツ界でもショービジネスでも同じですが、その昔、“成功者はキャデラックに乗れる。そうでないものはフォードに乗れ” と聞いたことがあります。来日前に、“東京に行ったら、こういう美味しい店があるぜ” など、アーティスト仲間から情報をもらってくる場合もありますし、かつてコンサートで何度も来日したスタッフなどは東京のお店事情もランクもよく知っています。

新人バンドには「アルバムが売れたら次は案内する」と明言


バンドメンバーから「○○へ行きたい」とリクエストされても、もし、そこが高級な店だった場合は「お前たちはまだ新人バンドで成功してないから、残念ながらそこへはいけない。アルバムが売れたら次は案内する」と、はっきり伝えるようにしていました。

これはマネージャーの教育によるところもありますが、しっかりした考えをもっているグループは納得してくれました。コンサート時なら、さらに分かりやすいはずです。武道館を満員にできるアーティストなら最高級のもてなしをうけますが、そうでなかったら “それなりのところ” で我慢するしかありません。

高級店にいけない新人バンドは、カジュアルですが、小綺麗なしゃぶしゃぶ屋とか、洒落た焼肉屋などでもてなすことも多かったです。もちろん、仮に食べ放題の店だったとしても、そういう情報は伝えませんし、焼肉にしてもレギュラー肉で十分喜んでもらえるものなのです。余談ですが、私がアテンドしたケースで、高級焼き肉屋の最高級ロースやカルビを提供したことがありました。そのとき「もったいない!」と叫びたくなるほど肉を焦んがり焼いていました。「ベーコンか!」ってツッコミたくなるほどに…。

来日アーティストたちのイメージする和食屋は、NYやLAの日本料理屋?


実は意外な不便さがあるのが和食です。バンドメンバーから「和食が食べたい」と言われても、彼らのイメージする和食屋はニューヨークやロサンゼルスなどにある日本料理屋さんです。寿司、天ぷら、すき焼きまでなんでも提供するお店ですが、日本での高級和食というと、寿司は寿司屋ですし、他のメニューもそれぞれの専門店です。

またメンバーの中にべジタリアンがいたり、主義や宗教的な理由で食べない食材があるとなると、これもまた面倒です。こういう時こそ、メニューに魚、鶏、豚、牛など何でも揃っている、いわゆる居酒屋やデパートの大食堂的な総合レストランの高級版の登場を長年期待していましたが、無理でしたね…。そもそも、このビジネススタイルが東京で成立するのは難しそうです。

さらに、参加したメンバーが多いとコミュニケイションを図るのに “難あり” なのが、高級な寿司屋や天ぷら屋です。これも前回のコラムで紹介しましたが、ボズ・スキャッグスが1988年6月『アザー・ロード』のプロモーションで来日した時、彼がリクエストしたのが天ぷら屋でした。カウンターのある寿司屋や天ぷら屋では、職人の真正面が上席です。カウンター席だと横並びですから、隣の席以外とは会話がはずみにくいのです。

ボズをアテンドした時は5名ほどだったので、会話も成立しましたが、ボズはちょっと気難しそうなタイプで、このときばかりは、横並びが正解だったのかも知れません。

渋公での屈辱を武道館で晴らした、ジャーニー「エスケイプ・ツアー」


ここからは同じ “おもてなし” でも、カンパニーディナーではなく、カンパニー主宰の大パーティのお話で、時代は1982年のジャーニー『エスケイプ・ツアー』での来日時に遡ります。

彼等ジャーニーの場合は、それまでの数回は、毎回高級ステーキハウスでおもてなしをしていました。メンバーも “お肉大好き” でしたが、スティーブ・ペリーはいつも欠席でした。スティーブはステージを降りると、バンドメンバーや我々と行動を共にすることはほとんどなく、当時のガールフレンド、シェリーと2人だけで別行動をとっていました。

さて、この年4月、彼らは初めて武道館公演を行うことができました。これを祝ってCBSソニー主催で大パーティを催したのです。

実は、1979年の初来日時に、ボストンの武道館公演とジャーニーの東京公演最終日である渋谷公会堂がバッティング。武道館は満杯で渋谷公会堂はガラガラでした。我々にしてみれば “屈辱の夜” でした。この屈辱が彼等のパワーとなり、以降、CBSソニー、ウドー音楽事務所、アーティスト・マネージメントの三位一体で『エスケイプ・ツアー』での武道館完売を実現。これを祝したものでした。このクダリは『果てしなきスーパーエナジー、ジャーニーが日本で大ブレイクした理由』に紹介していますので併せてご覧いただけると嬉しいです。

武道館ライブ終了後、ホテルの宴会場でカンパニー主宰の大パーティ


さて、武道館ライブ終了後、宿泊ホテルの宴会場にて、バンドを支えてくれた日本のメディア関係者、興行関係者総勢200名近くを集めての祝宴です。ステージのバラシを終えたクルー達も途中から参加。担当の私はMC。ここはさすがにスティーブ・ペリーがいないと話になりません。数日前から根回し、当日もシブるスティーブ・ペリーを部屋から引きずるようにステージに上げ、無事メンバー全員揃って宴はスタートです。

私がメンバーを紹介し、それぞれが集まったゲストに宛ててメッセージを披露。最初は嫌がっていたスティーブもステージに上がると、そこはプロ。集まった方々に感謝の言葉を述べていました。

そしてゲストを代表して音楽評論家の福田一郎先生からもメッセージが。ジャーニーのマネージメント関係者も先生とは特に懇意にしており、また先生も長年バンドの応援をしてくれました。

セレモニー的には開始時間も遅かったので、他にはベタですが鏡割りのみ。ちなみにこの儀式、参加者全員に枡酒が振舞われるのですが、乾杯が終わると、ほとんどの枡がその辺りに捨て置かれていました。持ち帰りができるようにビニール袋を用意していたのですが、半分以上のゲストは置いて帰ってしまいました。それでも、ドラムのスティーブ・スミスは、やたらこの枡を気に入ったようで、嬉しそうに7~8個しっかりと握っていました。自分には、彼のこの姿がとても印象的でしたし、このパーティと言えば、即スティーブ・スミスにつながるほどです。

セレモニーのフィナーレは、グループのオフィシャルフォトグラファー、ヒロ伊藤氏による記念ショット。脚立を宴会場天井近くまで高く上げ、メンバーを真ん中に全員をひとつのフレームに収めました。これは今でも大事な1枚です。




2020.11.26
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カタリベ
1950年生まれ
喜久野俊和
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