カーペンターズから教わったビートルズ「涙の乗車券」と「ヘルプ!」
70年代半ば、小学生の頃、日曜の朝になると自宅の大振りな4チャンネルステレオから流れてきたのがカーペンターズだった。
それは『GEM OF CARPENTERS』という、1973年に日本で独自にリリースされた2枚組のLPであった。このアルバムこそが日曜のおめざであり、僕のはじめての洋楽だった。
1981年、ジョン・レノンが亡くなった後ビートルズを本格的に聴き始めた僕は、前期ベスト盤『ザ・ビートルズ1962年~66年』を購入して聴き、馴染みのある曲があまりに多いことに仰天した。
とりわけ驚いたのが「涙の乗車券(Ticket to Ride)」と「ヘルプ!」であった。いずれも『GEM OF CARPENTERS』にカヴァーが収められていて、僕はこの2曲をカーペンターズから教わっていたのだが、ビートルズのオリジナルに比べて、カーペンターズのカヴァーはグッとテンポが遅くなっていた。
「ヘルプ!」については作者のジョン・レノンが生前、もっとテンポを落として録音したかったと語っていた。そしてジョン逝去後10年の1990年、盟友ポール・マッカートニーがライヴで披露したジョンの追悼メドレーで「ヘルプ!」をスローで歌っている。カーペンターズはジョンの意向も知らなかった内に、既に「ヘルプ!」をスローで歌っていたのだ。
そして「涙の乗車券」は1969年のカーペンターズのデビューシングルである。デビューシングルなのに敢えてスローテンポで、やはりジョン・レノン作のこの曲のメロディの美しさを際立たせた。
そう、カーペンターズはカヴァーの達人でもあったのだ。
オリジナルをも凌駕するカヴァーの達人カーペンターズ
1970年のアメリカBillboard4週連続1位の出世作「遥かなる影((They Long To Be)Close to You)」もバート・バカラックが1963年に世に出した曲のカヴァー。同じく1970年にBillboard2位を記録した「愛のプレリュード(We’ve Only Just begun)」に至っては、ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルス作の、サビしか無かったCMソングをリチャード・カーペンターが完成させ、目の覚めるようなアレンジを加えて世に出した。
その後はオリジナルでも「イエスタデイ・ワンス・モア」「トップ・オブ・ザ・ワールド」等々、数多の名曲を残していくが、同時に「スーパースター」等で奇才レオン・ラッセルに光を当てたり、ビートルズもカヴァーした「プリーズ・ミスター・ポストマン」でBillboard1位を獲得したりと、シーンのトップに躍り出ても良質なカヴァーを世に問い続けるところが、同じくカヴァーの名手のザ・ビートルズとは異なるところであった。
そしてカーペンターズの80年代唯一の全米トップ20ヒットであり尚且つ最後のヒット曲となった「タッチ・ミー」も、カヴァーソングだったのである。
80年代AORにアップデートされた「タッチ・ミー」
It was 40 years ago
1981年の8月1日付から3週連続で、カーペンターズの「タッチ・ミー(Touch Me When We’re Dancing)」がBillboardのシングルチャートで最高16位を記録した。
この年にリリースされた4年振りのアルバム『メイド・イン・アメリカ』からのシングルで、カーペンターズにとっては1976年に最高12位を記録した「見つめ合う恋(There’s a Kind of Hush)」以来実に5年振りの全米トップ20ヒットとなった。
「タッチ・ミー」は元々、アラバマ州マッスル・ショールズの男性3人のバンド、Bamaが1979年に発表した唯一のアルバムのタイトル曲であり、シングルにもなった。メンバー3人が共作したこの曲はBillboardで最高86位を記録している。しかしこの曲というかBamaはサブスクにも載っていないし、ウィキペディアでもこのバンドの日本語での項目は無い。正に知る人ぞ知る存在であり曲であった。
こんな隠れた名曲を見出し、発表後2年で新たな命を吹き込み世に知らしめてしまうのだから、リチャード・カーペンターのセンスには脱帽せざるを得ない。
カーペンターズのカヴァーは、アレンジ、テンポ共にオリジナルを結構尊重している。ただし男声のむくつけきメインヴォーカルはカレンの艶やかな女声ヴォーカルへと置き換えられ、コーラスもグッと厚みを増している。
オリジナルと一番異なるのは間奏の部分だ。Bamaのヴァージョンではシンセがやや頼りなくソロを奏でるが、カーペンターズでは名手トム・スコットのサックスが太く力強くソロを聴かせる。名演と言っていいだろう。カーペンターズはこの曲を鮮やかに80年代のAORにアップデートさせた。それが証拠にこの曲はBillboardのAORチャートで見事1位に輝いている。70年代の雄カーペンターズは80年代にも羽ばたこうとしていた。
この曲のヒットのお陰なのだろうか、Bamaは翌1982年、エア・サプライに「さよならロンリー・ラブ(Even The Nights Are Better)」を提供、こちらもBillboard5位のヒットを記録している。
ポップスに全てを捧げたカレン・カーペンター
健康的で無害なポップスというイメージのあったカーペンターズ。しかしその内情は優れたクリエイター故の苦悩によるものだったのか、ロックミュージシャンとも違わないハードな一面を有していた。
兄リチャードは70年代末薬物中毒に悩まされる。そして妹カレンは1980年に結婚するも翌年にはもう破綻。拒食症も彼女を襲っていた。『メイド・イン・アメリカ』が前作から4年も間を空けたのにはこんな背景があったのだ。
「タッチ・ミー」のヒットはそんな苦境を乗り越えようとしていた兄妹にとって記念すべき再スタートとなるはずであった。カレンの史上最高とも称されるアルト・ヴォイスにも苦悩は殆ど感じ取れなかった。しかしこの曲から2年も経たぬ1983年2月4日、カレンは32歳という若さで天に召されてしまう。「タッチ・ミー」は彼女が最後にヒットの歓びを知った曲となってしまった。
優れたポップスには陰がある、哀しみを隠している。正にそれを体現していたのがカーペンターズではなかっただろうか。最後のヒット曲がカヴァー曲ということも、ポップスに全てを捧げたカーペンターズらしかったのではないだろうか。
「タッチ・ミー」は、1995年にオリコン3位を記録し200万枚を売り上げた日本独自のベスト盤『青春の輝き~ベスト・オブ・カーペンターズ』にも収められている。
そして完璧主義者のリチャードは3年前の2018年に『カーペンターズ・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』という新たなベスト盤をリリースし、今も尚カーペンターズナンバーをアップデートし続けているが、ここにも「タッチ・ミー」は収められ、新たな命を吹き込まれている。
80年代には数えられるほどの足跡しか残せなかったカーペンターズだが、その歩みは未だ終わってはいない。
2021.08.07