奔放な悪女を愛する者は、愛するだけでは足りず、こちらの尊厳を捨て去るぐらい愛し尽くさなければならない―― 愛することは殺すことではなく、愛することは死ぬことであると分かるまでに。
この愛と死の二重らせんの渦へと落ちていく男女の心理こそ、ロマン派的病理とされた「アルゴラグニア」であり、これを幼年皇帝・澁澤龍彥は「痛苦淫楽症」と訳した。痛いけど気持ちいい、これが今回のコラムのテーマである。
いま六本木の国立新美術館で開催されている『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道展(以下、ウィーン・モダン展)』は、世紀転換期の悪の華たるクリムトやシーレに至るまでのウィーン・アートシーンを、ビーダーマイヤー芸術からはるばる遡るという、歴史的展望も蒐集された作品もどちらも素晴らしい、画期的な展示だった。
この展示でふと思い出したのが、クリムトとシーレの絵画が随所に現れる、ウィーンが舞台の『ジェラシー』という大傑作映画だ。監督のニコラス・ローグが2018年11月に亡くなったということもあって、追悼も兼ねてこの「痛苦淫楽症」の極北ともいえる一作を紹介したい。
ウィーンで出会ったアメリカ人二人の恋を描く… といってしまえば聞こえはいいが、それがタイトルにも見て取れるように「ジェラシー」まみれで、ほとんど混沌を極める内容になっている。
身ぎれいでプライドの高い精神分析科医アレックスを、かのアート・ガーファンクルが演じ、既婚者だがボヘミアンで手が付けられない女ミレーナを、テレサ・ラッセルという女優が演じている。
ちなみにウィーンはクリムトやシーレを産み出した地であると同時に、フロイト精神分析のメッカでもある。「アルゴラグニア(痛苦淫楽症)」という心理を描くにあたって、これほど適した人物設定や舞台はないのだ。
さて内容に踏み込む前に、この映画の「語り」の複雑さを説明しておいた方がよいだろう。
冒頭いきなりクリムトの代表作「接吻」が映され、画面変わってそこが美術館であると分かる。別々に絵を眺めるアレックスとミレーナの二人が映されるので、これが馴れ初めかと思って見ていると、突如断ち切られ、救急車でミレーナが搬送されているシーンにカットバックされる。一体なんなのかと思っていると、お次は名優ハーヴェイ・カイテル演じる刑事によるアレックスの取り調べが始まったりして、いよいよ映画が錯綜し始める。
要するに、この映画は編集が実験的で、アレックスとのいざこざの果てにオーバードーズして死にかけているミレーナの手術の行方と、そのミレーナの自殺未遂にアレックスが関与しているのでは… と疑う刑事の推理の行方が同時進行しつつ、頻繁にアレックスのフラッシュバックというかたちで二人の恋の物語(=過去)が描かれるという構造で、大まかにいうと三つのパートが混在しシャッフルされているのだ。
しかしそれがアトランダムにみえて実は緻密な計算に基づいているため、結果的に映画のサスペンス性を高めることに成功している。この映画の原題『バッド・タイミング』は、二人の男女の心理的すれ違いを意味する以上に、シーンとシーンの実験的な繋げ方の「間の悪さ」自体も指すメタな言及になっている。
と、話がすこし小難しくなってきたが、そういう映画の外枠はさておき、肝心の中身の方はというと、官能的かつ退廃的で、ショッキングなシーンの連続である。
例えばミレーヌの快楽の喘ぎ声が手術中のミレーヌの死にかけの喘ぎ声と交互に映されたりする。さらにはガーファンクルがベッドで淫らな腰つきを披露していると、それが手術中のミレーヌの子宮に差し込まれる器具と交互に映されたりと、悪趣味すれすれの「バッド・タイミング」な編集だ。
もう一つ、『地球に落ちてきた男』でデヴィッド・ボウイを起用するローグだけあって、やはり音楽の魅力も大きい。
冒頭の美術館のシーンでクリムトの絵画をバックに流れるのはトム・ウェイツの「インヴィテーション・トゥ・ザ・ブルース」で、人生の酸いも甘いも経験したようなウェイツのハスキーボイスによって、クリムト絵画の描く男と女の情愛に新たな次元が開かれるような思いがした。
他にもハリー・パーチの現代音楽やキース・ジャレット「ケルン・コンサート」といった通好みの音楽使用もあってか、原題の『バッド・タイミング』は、かのジム・オルークのアルバムタイトルにも引用されたり、ザ・キュアーのアルバム『ザ・トップ』に収録されている「ピギー・イン・ザ・ミラー」という曲にインスピレーションを与えたりと、音楽方面に与えた影響も少なくない。
ショッキングな官能描写、音楽の魅力ときて、さらに小道具やディテール面の工夫もみられる。たとえば、ミレーヌは奔放なボヘミアンだけあって腋毛もボボボーボ・ボーボボ状態なのだが、アレックスは繊細なインテリだけあって玉袋はつるつるのクリリン状態で、このあたり対比が効いていた(ベッドシーンで一瞬だけガーファンクルの玉袋を拝むことができる。誰得なのか)。
また、刑事がずっとコーヒーを飲んでいるのは彼の推理力の覚醒ぶりを示すものになっているし、アレックスが絶えず煙草を吹かしているのは、名著『煙草は崇高である』(太田出版)の至言を借りれば心理学教授である彼のインテリ性を物語る「思念の煙」なのである。
といった感じで、この映画の魅力を少々理屈っぽくお伝えしてきたが、詰まる所この映画を紹介したのは「自分」の話だからである。
ウィーン・モダン展がどうの、ローグ追悼がどうのというのは建前で、じつを申せば僕もかつてミレーヌのような女にハマって、ちと痛い目をみた。タクシーでウ〇コを漏らしたり、酔っぱらってゴミ置き場に頭から突っ込んでそのまま朝を迎えるような破天荒な人だったが、それは僕を嫌悪させると同時に魅了してもいた。
要するに「分析型」の僕にはない「経験型」の人生を生きていて、憧れていたのだ。
結果、僕の悪女への愛は実らなかった。いま思えばそれもそのはず、この映画の教えは「悪女は分析不可能」ということだのに、僕はこのコラムで悪女映画を「分析」してしまっているのだから。
「分析はいいから私を愛して」というミレーヌのアレックスへの書き置きが、「ぼくの心のやらかい場所を 今でもまだしめつける」(スガシカオ)のだった。
2019.07.11
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