“元ヤン” ではないかと噂された相川七瀬
“不良” とか “ヤンキー” と呼ばれる存在が街角からいなくなってどれくらい経つのだろう。今や『今日から俺は‼︎』や『東京リベンジャーズ』といった創作の世界でしかお目にかからない、ある種 “魔法使い” 的なフィクショナルな存在になりつつあるのかもしれない。
ノンフィクショナルだった頃の不良文化の最盛期が1980年代だとして、90年代はまだ学年に何人かはそっちの道へ行く生徒がいたような気がする。芸能界にも “元ヤン” ではないかと噂されるタレントが結構いて、相川七瀬もその1人だった。
相川七瀬のデビューは95年。しかし芸能界入りを目指してオーディションに挑戦したのはそれより5年も前のことだった。まだ15歳だった相川は不合格に終わり、ここで一旦夢を諦めるつもりだった。しかし約1年後に審査員を務めていた織田哲郎から直接オファーの連絡を受け、悩みに悩んだ末に今度は相川の方から織田に連絡を入れて上京。ボイストレーニングなどレッスンに励んだのち、デビューの夢を叶えた。
”知られざる天才” だった織田哲郎の華々しい活躍
平成を代表するコンポーザーである織田哲郎は、その間も大ヒット曲を連発していた。90年の「踊るポンポコリン」(B.B.クイーンズ)を皮切りに92年「世界中の誰よりきっと」(中山美穂&WANDS)、93年「負けないで」(ZARD)、94年「世界が終わるまでは…」(WANDS)と、ひとつまみしただけで目眩がするような豪華ラインナップ。いかに平成初期がビーイング系の時代、ひいては織田哲郎の時代だったのかがよく分かる。
ただ、これだけ華々しく活躍しながらも市井の視点でみれば織田哲郎は “裏方” というイメージが強かった。今みたいに手軽に情報が検索できる時代でもなかったので、極端にいえば “知られざる天才” だったのかもしれない。このことに関しては当時、小室哲哉との対談で次のように話している。
「やっぱり人にあんまり顔とか名前とか知られるのが好きじゃないのね。で、特に顔を知られるのが好きじゃないっていうのが、テレビとか出たくないっていうのがある」
『TK MUSIC CLAMP』(フジテレビ系列)1996.4.24
こうした本人の控えめな性格はもとより、TKを中心としたプロデューサーが脚光を浴びていた時代だったことも影響し、“職業作曲家” に徹していた。
飛ぶ鳥を落とす勢いでヒットを連発した相川七瀬
それまで裏方に徹していた織田がプロデューサー業に力を入れ始めたのが95年のこと。その筆頭が相川七瀬だった。最初の出会いから5年越しという秘蔵っ子をついにデビューさせたのである。
相川の第一印象は衝撃的だった。ヤンキーっぽい顔立ちにメイク、赤髪ストレートというルックスは人目を惹くオーラに満ちていて、直感的に "売れる” と思ったものだ。その予想どおり? 相川は飛ぶ鳥を落とす勢いでヒットを連発。ファーストアルバム『RED』は約245万枚を超える特大ヒットとなった。
何よりも素晴らしかったのが歌声だ。伸びのある高音に甘さとワイルドさを内包した声質は、プロデューサーである織田哲郎が提唱した “ダークなロック” を表現するうえで最適解だったように思う。そしてルックスから想像する歌声とピタリと合致する、いわば “ヤンキー声” だったことも、若い女性を中心に共感を生んだ一因だろう。
織田哲郎の真骨頂「恋心」の情景が浮かぶようなサウンド作り
さて、彼女の最大のヒットシングル「恋心」は、アルバムがまだ売れ続けていた96年秋にリリースされた。歌詞の中に季節を連想させるフレーズは出てこないが、イントロや曲調から秋から冬にかけての枯葉舞うもの悲しさが漂う。情景が浮かぶようなサウンド作りは天才・織田哲郎の真骨頂だ。
民謡調の異国情緒あふれるサウンドに、普遍的な失恋系の歌詞を乗せた「恋心」は新たな彼女の一面を引き出すと同時に、表現力の高さを世に知らしめる楽曲にもなった。“夢見る少女” もとい不良少女のイメージから脱却し、実力派ボーカリストへとステップアップしたのもこの楽曲が契機だったと思う。
AメロからBメロにかけては低音を効かせた静かなフレーズが続き、サビに向けて階段を上るように盛り上がっていくという進行はJ-POPの王道でもある。だからこそボーカリストによってガラリと色合いも変わるのだが、相川はこれを大人すぎず、少女すぎずの絶妙なバランスで歌いこなしているのだ。色でたとえればパープル。情熱的な赤でもなく、可憐なピンクでもない、20代前半という微妙な年齢を投影したかのようなボーカルが堪能できる。おぼろげながら当時音楽番組でこの歌をうたうときもパープル系の照明が使われていた記憶がある。
当時、タイアップを取れば売れると言われた『銀座じゅわいよ・くちゅーるマキ』のCMソングとしてキャッチーなサビがお茶の間に流れまくり、セールスはどんどん積み重なっていった。最終的にミリオンを突破し、相川の代表曲として四半世紀以上が経った今でも歌い継がれている。
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2024.02.16