「ホリー・マザー」は、エリック・クラプトンが80年代に書いたもっとも美しい曲のひとつだろう。ここで歌われているのは、救済を求める心の叫びだ。つま弾かれるアルペジオのイントロに導かれ、エリックは呼びかけるようにして歌い出す。「聖母様、どこにいるのですか?」。
主人公の男は、心をふたつに引き裂かれ、涙がとまらない。孤独と苦痛に苛まれ、自分を取り戻すのにどの道を進めばいいのかわからず、その答えを求めている。
聖母がそこにいるのはわかる。感じるのだ。しかし、何も答えてはくれない。心の苦しみに耐えかねた男は、次第に生きる気力を失っていく。
待てない 待てない
もうこれ以上は待てない
待てない 待てない
もうあなたを待ってはいられない
男は悲痛な気持ちを吐露する。これまで幾度となくあなた(聖母)の名前を呪ってきた。魂からの怒りに震えたこともあった。けれど、どうやら終わりが近づいているらしい。もうこの足で走ることはできない。もうこの手で弾くことはできない。この声を残して、自分は消えていく。安らかに、あなたの腕の中で。
ゴスペル調の柔らかいメロディー、エリックの伸びやかなギターのトーンが、聴く者に魂の救済を告げる。
歌詞の内容から、その救済は死によってもたらされたようにも思えるが、そうとは限らないだろう。それよりも重要なのは、この歌が男のすべての苦しみを受け入れているところだ。
80年代を通して、エリックはアルコール依存症に苦しんだ。施設に入院し、治療を受けて回復しても、素面の生活に馴染めず、再び酒に手を出してしまう。加えて妻であるパティ・ボイドとの結婚生活の破綻。また、2人の女性との間に生まれた子供の存在にも戸惑い、本人が言うところの「下降線のスパイラル」から抜け出せずにいた。
1984年、ロジャー・ウォーターズのツアーにギタリストとして参加したとき、エリックはホテルの部屋で大酒を飲み、一種のアルコール性機能障害に陥った。絶望感に襲われ、自分の生活がどれほど惨めであるかを思い知らされたという。「ホリー・マザー」が書かれたのは、そのときだった。エリックは自伝の中でこう綴っている。
「今でもこの曲が大好きなのは、それが自分の心の奥底から出た、助けを求める真剣な叫びだったことがわかっているからだ」
また、当時の日記にはこうも記されている。
「自分のすべての苦しみを音楽の中に表現したい。抑えるつもりはない。苦しんでいる他の人たちに音楽を届けて、彼らがひとりぼっちではないことを教えたい」
とてもエリックらしいと思う。自伝を読んでいると、この人はよくこれまで死なずに済んだものだと感心させられるのだが、こうした心根の優しさが、エリックの命を今日まで繋いできたのかもしれない。
「ホリー・マザー」は、1986年11月に発売されたアルバム『オーガスト』に収められた。その際、同年3月に自殺したザ・バンドのリチャード・マニュエルに捧げられている。エリックはどんな気持ちでこの曲と友人の死を重ね合わせたのだろう。
「もうこれ以上は待てない」そういう気持ちになることは誰しもあるだろう。辛いときはやって来ては去り、またやって来る。そうした状況において、「ホリー・マザー」は特別な歌になる。
これは心の底からの絶望と救済についての歌だ。そして、歌はその苦しみを理解し、すべてを受け入れようとする。聖母とは、この歌そのものなのかもしれない。
2018.03.30
YouTube / rockully3
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