6月7日

崖っぷちの松田聖子!マスコミのバッシングを受けながらも怯むことなく前へ

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今年2022年でデビュー42周年、そして60歳となった “還暦アイドル” 松田聖子


1983年夏のコンサートツアー『アン・ドゥ・トロワ』で初めて松田聖子のコンサートを見て以来、40年近くコンサートに通い続けている筆者が、結婚、そして出産を経て復帰した1987年から1990年にかけてのママドル時代のコンサートを、『松田聖子コンサートの原型が作られた “3つの日本武道館公演” は見逃せない!』というコラムで解説した。

今回は、サンミュージックから独立直後の転換期ともいうべき “1990年と1991年の松田聖子” を、コンサートを中心に振り返る。

苦境に負けないタフなアイドルの誕生


1980年代後半、バブル景気に日本が湧くなか、ソニーが提携していた米国のCBSレコーズを傘下に収めることになる。それを記念して、日本人の歌手を世界デビューさせるというプロジェクトに選ばれたのが松田聖子だった。

ディオンヌ・ワーウィック、グロリア・エステファンとともに参加した1989年5月にリリースの架空のミュージカルをテーマにしたプラシド・ドミンゴ主演のアルバム「ゴヤ…歌で綴る生涯」と、1990年にワールドリリースとなったアルバム『SEIKO』の制作のために、1988年夏のコンサートツアー以降米国に滞在する時間が長くなった。

出産から復帰した聖子を “ママドル” として持ち上げていた日本のマスコミだったが、日本を不在にする時間が長くなるにつれ聖子への批判めいた記事が少しずつ増えていった。

聖子へのバッシングが本格的に始まったのは、1989年6月のサン・ミュージックからの独立だ。米国でのアーティストとエージェントの契約スタイルを学んだ聖子が、日本にそれを持ち込もうとしたが事務所が拒絶したことで独立することになったと、当時盛んに報じられた。

聖子バッシングを続けた日本のマスコミ


大手事務所から独立したことで後ろ盾となる存在がなくなった途端に、ほぼすべてのマスコミが掌を返したがごとく聖子バッシングを始める。当時、聖子を好意的に取り上げ続けたのはTBS系の午後のワイドショー『3時にあいましょう』と、女性誌の『週刊女性』のみだったと記憶している。

まるで犯罪でもおかしたかのようにバッシングされ続け、1989年11月にリリースしたシングル「Precious Heart」でオリコンの連続1位記録が途絶える。同年の紅白歌合戦に選出されず、CM契約もなくなるという状況に追い込まれた。

『松田聖子コンサートの原型が作られた “3つの日本武道館公演” は見逃せない!』で触れたように、同年末から翌年初頭にかけて開催したコンサートツアー『Precious Moment』も集客に苦戦。

並みのタレントなら、このまま表舞台からフェードアウトせざるを得ない崖っぷちに追い込まれたかのように思えた。しかし、松田聖子はこの逆境を見事に乗り越えていく。



意欲的にチャレンジを続けた「転換期」の聖子


1980年のデビューから1985年の結婚休業までを「松田聖子 第1章」、1996年の出産から1989年のママドル時代を「松田聖子 第2章」とするなら、1990年と1991年は、個人事務所「ファンティック」でセルフプロデュースによる「松田聖子 第3章」の幕を開ける直前の「転換期」であったと捉えている。

独立以降始まったマスコミ挙げてのバッシングにより、個人事務所での活動が困難になるのではないかという予想を覆して、1990年と1991年の2年間、松田聖子はとても意欲的に活動し続けた。それが顕著に現れているのは、この2年間で3枚のアルバムをリリースしたことだ。

1990年6月7日にワールドリリースとなった全曲英語詞の『Seiko』、同年12月10日にはオリジナルアルバム『We Are Love』、そして1991年5月2日には初の洋楽カバーアルバム『Eternal』と半年に一枚のペースでアルバムリリースを続けた。



松田聖子を支えた強固で根強いファン


『We Are Love』は、オリジナルアルバムの前作である『Precious Moment』と同じく、さまざまな作曲家が提供した曲に、聖子が自作詞を書いている。曲を提供したのは、鈴木祥子、高橋諭一、原田真二、上田知華、尾関昌也、笹路正徳などだ。

初の洋楽カバーアルバム『Eternal』は、聖子がアメリカ滞在中に耳にして気に入った曲に本人が日本語詞を書く、というコンセプトで作ったものだ。とはいえ、プロモーションの中心に据えた「Hold On」(ウィルソン・フィリップス)と「Crazy For You」(マドンナ)はオリジナルの英語詞のままであった。

いずれのアルバムも1位にはならなかったものの、オリコンの最高順位はTOP3にランクイン。マスコミが盛んに「聖子、落ち目」と揶揄するような人気低下傾向ではなく、むしろ人気は下げ止まっていた。この時点でマスコミがいくら批判しようとも離れることのない強固で根強いファン層が形成され始めており、それがコンサートツアーの安定した集客の下地となっていたことは間違いないだろう。



ドラマ、映画、MV… 映像作品に取り組む


また、この2年間は映像関連にも意欲的に取り組んだ年だった。

1990年5月には日本テレビの2時間ドラマ枠で樹木希林と共演した『ママ母戦争』がオンエア。同年11月には明石家さんま、沢口靖子らと共演の東宝映画『どっちもどっち』が公開。

翌1991年8月には、ワールドリリースアルバム『SEIKO』の収録曲2曲と、カバーアルバム『Eternal』の収録曲2曲のMVを収録したビデオ「SEIKO Clips」をリリースした。

マドンナへの強烈な意識を見せたコンサートツアー


1991年5月16日より、1年5ヶ月ぶりとなるコンサートツアー『Amusement Park』が、国立代々木競技場第一体育館で幕を開けた。この年、日本武道館が改装工事の期間中であったために、国立代々木体育館3daysでスタートして、ツアー後半に日本武道館2daysというスケジュールとなっている。

ちなみに、松田聖子のキャリアの中で、国立代々木競技場第一体育館を使用したのはこのツアーだけだ。

先述のように前回のツアー『Precious Moment』以降、3枚のアルバムをリリースしており、それぞれから数曲ずつ選んだセットリストとなった。トータルで見ると、少々まとまりに欠けるきらいがあるのは否めない。そしてなにより、マドンナを強烈に意識していることが印象に残る。

『Seiko』のレコーディングでアメリカ滞在していた時期は、まさにマドンナの人気絶頂期であり聖子が大いに刺激を受けたことは事実だろう。洋楽カバーアルバム『Eternal』収録の「Crazy For You」もセットリストに入っている。

加えて、マドンナの「Into The Groove」もセットリストに加えカバーしている。さらにマドンナがMTVアワードで見せた「ヴォーグ」のパフォーマンスを彷彿とさせる演出も取り入れている。

ここまであからさまにマドンナを意識した選曲・演出に振り切ったことで、松田聖子の世界が破綻してしまうのではないかと当時は心配したものだ。しかし、マドンナの世界を模倣しているようでいて、実はその世界を松田聖子ならではの「可愛さ」で上塗りしていく試みであったのだと、今にして思う。

この試みこそ、翌年から本格的に始まるセルフ・プロデュースによる「松田聖子 第3章」のベースとなるものだ。



生み出された、今に続くコンサートの原型


『松田聖子コンサートの原型が作られた “3つの日本武道館公演” は見逃せない!』では、ママドル時代のコンサートに、今に続くコンサートの原型があることを解説したが、『Amusement Park』にも、多くの原型を見ることができる。

まずはコンサートのセットの構造だ。中央に階段を配置した二階建てのセットを初めて採用した。階段やリフターの配置など細かい点が異なるとはいえ、現在にいたるまでこの二階建て構造のセットは、松田聖子のコンサートの基本形となっている。

1987年『Super Diamond Revolution』と1988年『Sweet Spark Stream』ツアーでバックバンドを務めた「ダンガン・ブラザーズ・バンド」は1989年に解散。そのメンバーである小倉良を中心とするミュージシャンがこのツアーよりバックバンドを務めていることも記しておこう。

小倉良は、翌年リリースするアルバム『1992 Nouvelle Vague』から始まりその後長い期間共に曲作りをしていく聖子の音楽面でのパートナーとなる。

マドンナのMTVでのパフォーマンスに影響を受けたと思われる場面からは、下記2点の現在まで連なる聖子コンサートの定番演出を生み出すという副産物もあった。

1)メルヘンなお城のセット+お姫様ドレスで「時間の国のアリス」を歌う
2)お姫様ドレスの聖子と、王子様コスのダンサーによるパフォーマンス

方向性の異なるアルバムを半年ごとにリリースし、ドラマや映画にも出演。まとまりに欠けるとはいえ意欲的な演出をとりいれたコンサートの開催など、マスコミのバッシングの嵐で傷ついたファンの心を癒すかのように、次々とポジティブな話題を提供し続ける。

後ろ盾のない個人事務所で、マスコミ総がかりのバッシングの嵐を一身に受けながらも、怯むことなく前進する松田聖子は、1990年と1991年の「過渡期」を経て、翌年1992年より本格的にセルフプロデュースに取り組む「松田聖子 第3章」の幕を開けることとなるのだ。



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2022.10.30
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カタリベ
1964年生まれ
冨田格
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