1983年夏のツアー『アン・ドゥ・トロワ』で松田聖子のコンサートを初めて観て以来、40年以上会場に足を運んでいる筆者だが、今回は所属事務所だったサンミュージックからの独立直後、彼女の転換期ともいうべき “1990年と1991年の松田聖子” を、コンサートを中心に振り返ってみよう。
苦境に負けないタフなアイドルの誕生 1988年1月、日本がバブル景気に沸くなか、ソニーは提携していた米国のCBSレコードを買収し、その傘下に収めることとなる。そこで、日本人の歌手を世界デビューさせるというプロジェクトに選ばれたのが松田聖子だった。
1989年5月にリリースされた、プラシド・ドミンゴのアルバム『ゴヤ…歌で綴る生涯』にディオンヌ・ワーウィックやグロリア・エステファンと参加したり、1990年にワールドリリースされたアルバム『SEIKO』制作のため、1988年夏のコンサートツアー以降、聖子は米国に滞在する時間が長くなった。
この時期、出産から復帰した聖子を “ママドル” として持ち上げていた日本のマスコミだったが、日本を不在にする時間が長くなるにつれ、聖子への批判めいた記事が少しずつ増えていく。そのバッシングが本格的に始まったきっかけが、1989年6月のサンミュージックからの独立だった。米国でアーティストとエージェントの契約スタイルを学んだ聖子が、日本にそれを持ち込もうとしたが事務所が拒絶したことで独立することになったと盛んに報じられた。
聖子バッシングを続けた日本のマスコミ 事務所から独立して後ろ盾となる存在がなくなった途端、ほぼすべてのマスコミが掌を返したがごとく聖子バッシングを始める。当時、聖子を好意的に取り上げ続けたのはTBS系の午後のワイドショー『3時にあいましょう』と、主婦と生活社の『週刊女性』のみだったと記憶している。
まるで罪を犯したかのようにバッシングされ続け、1989年11月のシングル「Precious Heart」で、オリコンの連続1位記録が途絶えてしまう。同年の紅白歌合戦にも選出されず、CM契約もなくなるという状況に追い込まれた。そして、同年末から翌年初頭にかけて開催したコンサートツアー『Precious Moment』も集客に苦戦。並みのタレントなら、このまま表舞台からフェードアウトせざるを得ない、崖っぷちに追い込まれたかのように思えた。しかし、松田聖子はこの逆境を見事に乗り越えていく。
そう、1980年のデビューから1985年の結婚休業までを “松田聖子 第1章”、1986年の出産から1989年のママドル時代を “松田聖子 第2章” と捉えるなら、1990年と1991年は、セルフプロデュースによって “松田聖子 第3章” の幕が開く直前の “転換期” だった。
全曲英語詞の「Seiko」を皮切りに、3枚のアルバムをリリース 独立以降始まったマスコミ挙げてのバッシングで、個人事務所での活動が困難になるのではないかという予想を覆し、1990年と1991年の2年間、松田聖子はとても意欲的に活動し続けた。それが顕著に現れている事実は、この2年で3枚のアルバムをリリースしたことだ。
1990年6月7日にワールドリリースとなった全曲英語詞の『Seiko』を皮切りに、同年12月10日にはオリジナルアルバム『We Are Love』、そして1991年5月2日には初の洋楽カバーアルバム『Eternal』と、半年に1枚のペースでアルバムのリリースを続けた。
『We Are Love』は、前々作である『Precious Moment』(1989年)と同じく、さまざまな作曲家が提供した曲に、聖子自身が詞をつけている。曲を提供したのは、鈴木祥子、高橋諭一、原田真二、上田知華、尾関昌也、笹路正徳など。
また、洋楽カバーアルバム『Eternal』は、聖子がアメリカ滞在中に耳にして気に入った曲に本人が日本語詞を書く、というコンセプトで作ったもの。とはいえ、プロモーションの中心に据えた「ホールド・オン」(ウィルソン・フィリップス)と「クレイジー・フォー・ユー」(マドンナ)は英語詞のままであった。
いずれのアルバムも1位にはならなかったものの、オリコンの最高順位は3位にランクイン。マスコミが盛んに “聖子、落ち目” と揶揄するような人気低下傾向ではなく、むしろ人気は下げ止まっていた。この時点で、マスコミがいくら批判しようとも離れることのない強固で根強いファン層が形成され始めており、それがコンサートツアーの安定した集客の下地となっていたことは間違いないだろう。
また、この2年間は映像関連にも意欲的に取り組んだ年だった。1990年5月には日本テレビ系の2時間ドラマで樹木希林と共演した『ママ母戦争』がオンエア。同年11月には明石家さんまとダブル主演の東宝映画『どっちもどっち』が公開。翌1991年8月には、アルバム『SEIKO』の収録曲2曲と『Eternal』の2曲を収録したミュージックビデオ集「SEIKO clips」をリリースした。
マドンナへの強烈な意識を見せたコンサートツアー そして1991年5月16日より、1年5ヶ月ぶりとなるコンサートツアー『Amusement Park』が、国立代々木競技場 第一体育館で幕を開ける。この年、日本武道館が改装工事中だったため、代々木体育館3daysでスタートして、ツアー後半で日本武道館2daysというスケジュールになっている。ちなみに、松田聖子のキャリアの中で、代々木第一体育館を使用したのはこのツアーだけだ。
先述した通り、この時期の聖子は3枚のアルバムをリリースしており、それぞれのアルバムから数曲ずつ選んだセットリストとなった。トータルで見ると、少々まとまりに欠けるきらいがあるのは否めないが、マドンナを強烈に意識していたことが印象に残る。
アルバム『Seiko』のレコーディングでアメリカ滞在していた時期は、まさにマドンナの人気絶頂期であり、聖子が大いに刺激を受けたことは間違いないだろう。洋楽カバーアルバム『Eternal』に収録された、マドンナの「クレイジー・フォー・ユー」もセットリストに入っている。また、ダンサブルな「イントゥ・ザ・グルーヴ」をリストに加えたり、マドンナが『MTV Video Music Awards』で見せた「ヴォーグ」のパフォーマンスを彷彿とさせる演出も取り入れている。
ここまであからさまにマドンナを意識した選曲・演出に振り切ったことで、松田聖子の世界が破綻してしまうのではないかと当時は心配したものだ。しかし、マドンナの世界を模倣しているようでいて、実はその世界を松田聖子ならではの “可愛さ” で上塗りしていく試みであったのだと、今にして思う。この試みこそ、翌年から本格的に始まるセルフプロデュースによる “松田聖子 第3章” のベースとなるものだ。
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生み出された、今に続くコンサートの原型 この『Amusement Park』にも、今に続く松田聖子コンサートの原型を多く見ることができる。何よりも、コンサートセットの構造だ。中央に階段を配置した2階建てのセットが初めて採用されている。階段やリフターの配置など細かい点が異なるとはいえ、現在に至るまでこの2階建て構造のセットは、松田聖子コンサートの基本スタイルとなっている。
音楽面においては、1987年と1988年のツアーで聖子を支えたダンガン・ブラザーズ・バンドのギタリスト、小倉良を中心とするミュージシャンがこのツアーからバックを務めていることも記しておこう。小倉は、翌年リリースすることになるアルバム『1992 Nouvelle Vague』に始まり、その後長い期間ともに曲作りをしていく聖子の音楽面でのパートナーとなっていく。
また、マドンナのMTVでのステージングに影響を受けたと思われる場面からは、現在まで連なる、聖子コンサートの2つの定番演出を生み出す副産物もあった。ひとつは、メルヘンなお城のセット+お姫様ドレスで「時間の国のアリス」を歌う演出。もうひとつは、お姫様ドレスの聖子と王子様コスチュームのダンサーによるパフォーマンスである。
怯むことなく前進する松田聖子 方向性の異なる3枚のアルバムを半年ごとにリリースし、ドラマや映画にも出演。そして、意欲的な演出を取り入れたコンサートの開催など、マスコミのバッシングの嵐で傷ついたファンの心を癒すかのように、次々とポジティブな話題を提供し続ける。
後ろ盾のない個人事務所で、マスコミ総がかりのバッシングを一身に受けながら怯むことなく前進する松田聖子は、1990年と1991年の “過渡期” を経て、翌1992年より本格的にセルフプロデュースに取り組む “松田聖子 第3章” の幕を開けることになるのだ。
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2024.09.09